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2010年11月26日 (金)

至福と愛と徳(1)

誰かのために徳を積めば、人はしあわせになれるということはない。

自分がしあわせであることが、徳を積むことの条件である。それ以前では、人はお互いに傷つけあう存在でしかない。みんな、愛情に飢えているのだ。だからこそ、他人のことをかまっていられる余裕も無いのだ。そう思うと、人間がいとおしくもあり、苦々しくも感じるのだ。

愛情に代わるどんな物もあなたを満足させはしない。人は、その自我の形成の過程で、愛情の代わりに、魂のない人形を与えられることで慰めあっている。特に現代においては、お互いに愛情に飢えていながら、本物の愛情を与えられることもない。この悪循環から一体どうやって逃れられるというのだろう。

 あなたは常に、徳のあることを行なえば至福に満ちると言われてきた。私はあなたが至福に満ちていれば徳があると言おう。あなたは、罪を犯せば惨めになるといわれてきた。私は、惨めならあなたは罪深いと言おう。

 惨めさは罪であり、至福には徳がある。

毎日が楽しくなくなってきたら、あなたは罪深い、ということである。私たちは、日々の生活に追われて、楽しいことは少なくて苦しいことの方が多いと言う。それでも、あしたこそは何か良いことがあるのだとがんばっている。けれどもそれは罪深いことなのかもしれない。一体今日という日を楽しまなくて、いつ楽しむのだろう。

太字引用:「シャワリング ウイズアウト クラウズOSHO,市民出版社」

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