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2010年10月16日 (土)

エゴの落とし穴(4)

「エゴ以外に罪はない。‥ エゴはいつも自分を人々に印象づけることに興味を持つ。自分を人々に印象づければそれだけ、エゴは栄養を得る。‥エゴは他人の意見に左右される。」

これは耳の痛い話です。

私自身和尚の講和録に感銘し、ブログを立ち上げているわけですが、この他の人よりスピリチュアルの知識について知っているという優越感は少なからず持っています。それも自分のエゴの滋養になっているという。

自分を誰かに認めてもらいたいという欲求はねそれ自体悪いことではない。それは社会的に自分の居場所、存在価値を見いだす試みでもあるからです。自分というものの価値を社会から得たいわけです。しかし、和尚はそれをも否定する。

「人がその本来の姿になれるのは、‥ 思考が落とされ、意識が存在と直接向き合うと即座に、存在と触れ合う瞬間ごとに、人はその本来の姿になる。そのとき、人は初めてほんとうの自分自身になる。」

意識が存在と触れ合う瞬間とは、おそらく自分のエゴを介さない状態だと思います。そして、エゴがないとき、存在、つまり自然、道、全体とひとつになり、そのひとつである意識の状態が永遠の真理であり、絶対性であるという解釈をしています。

そこに自分自身はいない。自分という感覚、意識状態は、本来は存在しない。それは禅に通じるものです。全体とひとつになった自分の意識? はどうなるのか、と考え始めたら、また迷路にはまってしまいます。

道、自然とひとつ、一個人である私が、エゴを落として自らの内にある自然の命の流れに身を委ねた時、そこに目指すものがあるような気がします。そして、それは光明を得た人でなければ、何も語ることができない境地なのだと思います。

以上太字:和尚

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