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2010年9月

2010年9月25日 (土)

エゴの落とし穴(1)

エゴの落とし穴(1)

自己が捨て去られるとき、そこに不足しているものは何もない。そのとき、人は満ち溢れる」

覚者と私たちとの唯一の違いは、私たちはひとりでいることができないということだ。

ひとりでいることができたとき、社会の何物に対しても興味や関心を示すこともなければ、欲求の対象をもつこともない。あらゆる不安や恐怖の原因も作り出すことがない。

 自己が捨てられる時、それは本当の自分、身体が生まれ変わったりしても、ずっと続いてゆく自分という意識をも超えて、誰でもない人、「無」に帰らなければならない。

「無」とは何か?

それは大海だったり、雲ひとつない青空だったりする。ではその青空とは、私たちの意識の源ということなのだろうか? それらはたとえに過ぎない。

覚者はこの「無」、誰でもないひと、大海、青空にたどりついた。それは永遠なるものに溶け込むということであり、それは一体どういうことなのか。

「そのとき、人は満ち溢れる」

そのときわたしはどうなるのか、想像すること、予想することは単に私自身のエゴを満足させるだけでしかない。私たちは、その境地を体験することでしか、言葉を使えない。

だから私たちは、覚者の言うことを絶えず自分の知識として身に付けてしまう過ちに対して、戒めなければならない。

私は覚者ではないのだから、何も知らない。しかし、「無」という言葉に私は以前から無性にひかれていたのだ。何よりも偽善じゃなく、自分に正直でいることが人間として大切だといつも思っている私は、この無について調べてみたくなりました。

太字引用:「そして花々が降りそそぐ(和尚)市民出版社刊」

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2010年9月18日 (土)

真善美(13)

真善美の一体性

本性と仏性

真善美が一体となるところ、それは「道」そのものである。その「道」とはどこにあるのか。それは「本性」であり、「唯一の光」であり「純粋な意識」に他ならない。

和尚はいう。

あなた方の本性は絶対の静寂、静穏、安らぎだ。それはほとんど無、虚空と言ってもよい。そして仏性とはまさにそれ、自らの可能性に目覚めるに至ったあなたの本性だ。自らの本性に目覚めることは、生における最大の体験に他ならない。なぜなら、それは生、誕生、死からの解放をもたらすからだ‥」

人間が惨めさや苦しみや地獄を経験するのは、不自然な状態に置かれているからだという。その不自然な状態とは、この世界のことをいっているのではなく、この世界に暮らす人間が作った社会構造が不自然であるということ。すなわちそれは、私たち自身が不自然さをもたらしているということだ。

なぜそうなったかというと、私たちは完全な意識と無意識の間に心を住まわせて、自然を分割するような思考活動を絶えず行なっているからである。そして、思考する主体としての自我は、それがあたかも永遠に生きているかのような錯覚を起こしている。私たちはこの束の間のこころに過ぎない自我に囚われて生きているつもりでいるのである。それは不自然であり本性から外れた行為であるという。

自らの本性こそ究極の英知であり、そこから生まれてくるあらゆる行為はいかなる努力もなしに‥ 美しく、優雅で善良なものになるからだ。」

その行為が自らの本性から出ずる行為であれば、それは「全一な行為」となり、無条件に善である。それに対して、分別する心で判断する行為であれば、心の一部分の意識と、残りの無意識の部分との葛藤による判断となるから、間違った行ないをしてしまうことになる。自ら生の源泉から、ひとりでに起こってくる行為は、人間の過去の経験の記憶や心を持ち込まないから、「私の行為」でなくなる。その本性の声に従ってする「無心」の行ないは、美しくもあり、優雅でもあり、真実や、善、聖なる質があるということになる。

要するに自分のエゴの判断を超えた内発的な本性に従った行為をするなら、それは「無心」の行為であり、そこに間違いはないということであろう。善なる行為をする、そのためには自分の本性に覚醒していなければならず、光明を得、「純粋な意識」状態に到達していなければならない。

思うに真理の体得とは、自分のなかの本性に100%目覚めることであり、目覚めた境地から導かれる行為は絶対善であり、優雅な美を伴った質を帯びているということになる。

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

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2010年9月10日 (金)

真善美(12)

真善美(12)

善悪を超えて(4)

自らの本性を知ることは学ぶことによっては起こらない

苦しみからは、自分の願望が虚しいことを学ぶだけだ。もし、この世界から唯一学び得るものがあるのだとしたなら、それはたとえどんなに成功を収めても、どんなに失敗に終わったとしても、それらはいずれ、無の中に消え去っていくという事実を理解することだけなのだろう。

私たちは、自分の今の状態の意識を保ちつつ、この自分がずっと続いてくれることを願っている。そして、世の中はどんなにつらい目にあっても、いつかそのうち幸せが訪れることを願って止まない。しあわせな状態がもたらされたなら、その状態がずっと続きますようにっ‥ て、願ってやまない。どちらにしても、それらは時の流れに流されて、いつまでも続かないひと時の夢に終わってしまうということなのだ。それでも、‥ と人はこの世界に何かを期待し、願ってやまない。それはなぜだろう?

過去があるとしたなら、その地点で叶わなかった願い事の数々をその時に戻ってやり直して、叶えたいのだろうか。自分を傷つけた相手に対して、復讐を遂げるまでは何度でも生まれ変わらずにいられないのだろうか。私たちは、あまりにも過去生? に残してきた心の痛みや後悔がたくさん積もりすぎて、この世界の住人でいることを止められなくなった旅人に過ぎないような気がするのは私だけだろうか?

この不毛な苦痛を終わらせたい、そうこころより思わない限り、ひとは真理について、みずからの本性について強い情熱を抱くことはないのかもしれない。

私は、<気づく>状態、純粋な意識の状態とは何であるのか、知りたいのである。それは、真理を追究したいと望む私自身の動機から来るものである。

永遠の生、そこに生の神秘があり、真理が存在する。それはこれまでも、そしこれからもずっと変わらず溢れ続けるまさに「永遠の泉」なのだろう。それを強く知りたく願うばかりである。そしてその気づきの状態からみたこの世界はまた、きっと全然違ったものに映ると思うし、そこで生きる自分も、生き方そのものが、生きる姿勢が全く異なったものになろうことは想像に難くない。

和尚云う

「どれほど多くの知識も、あなたに自らの不滅性、永遠性、全体と自分がひとつであることの体験を与えない‥ 真理はじかに知ることしかできない。」

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

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