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2010年9月18日 (土)

真善美(13)

真善美の一体性

本性と仏性

真善美が一体となるところ、それは「道」そのものである。その「道」とはどこにあるのか。それは「本性」であり、「唯一の光」であり「純粋な意識」に他ならない。

和尚はいう。

あなた方の本性は絶対の静寂、静穏、安らぎだ。それはほとんど無、虚空と言ってもよい。そして仏性とはまさにそれ、自らの可能性に目覚めるに至ったあなたの本性だ。自らの本性に目覚めることは、生における最大の体験に他ならない。なぜなら、それは生、誕生、死からの解放をもたらすからだ‥」

人間が惨めさや苦しみや地獄を経験するのは、不自然な状態に置かれているからだという。その不自然な状態とは、この世界のことをいっているのではなく、この世界に暮らす人間が作った社会構造が不自然であるということ。すなわちそれは、私たち自身が不自然さをもたらしているということだ。

なぜそうなったかというと、私たちは完全な意識と無意識の間に心を住まわせて、自然を分割するような思考活動を絶えず行なっているからである。そして、思考する主体としての自我は、それがあたかも永遠に生きているかのような錯覚を起こしている。私たちはこの束の間のこころに過ぎない自我に囚われて生きているつもりでいるのである。それは不自然であり本性から外れた行為であるという。

自らの本性こそ究極の英知であり、そこから生まれてくるあらゆる行為はいかなる努力もなしに‥ 美しく、優雅で善良なものになるからだ。」

その行為が自らの本性から出ずる行為であれば、それは「全一な行為」となり、無条件に善である。それに対して、分別する心で判断する行為であれば、心の一部分の意識と、残りの無意識の部分との葛藤による判断となるから、間違った行ないをしてしまうことになる。自ら生の源泉から、ひとりでに起こってくる行為は、人間の過去の経験の記憶や心を持ち込まないから、「私の行為」でなくなる。その本性の声に従ってする「無心」の行ないは、美しくもあり、優雅でもあり、真実や、善、聖なる質があるということになる。

要するに自分のエゴの判断を超えた内発的な本性に従った行為をするなら、それは「無心」の行為であり、そこに間違いはないということであろう。善なる行為をする、そのためには自分の本性に覚醒していなければならず、光明を得、「純粋な意識」状態に到達していなければならない。

思うに真理の体得とは、自分のなかの本性に100%目覚めることであり、目覚めた境地から導かれる行為は絶対善であり、優雅な美を伴った質を帯びているということになる。

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

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