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2010年9月25日 (土)

エゴの落とし穴(1)

エゴの落とし穴(1)

自己が捨て去られるとき、そこに不足しているものは何もない。そのとき、人は満ち溢れる」

覚者と私たちとの唯一の違いは、私たちはひとりでいることができないということだ。

ひとりでいることができたとき、社会の何物に対しても興味や関心を示すこともなければ、欲求の対象をもつこともない。あらゆる不安や恐怖の原因も作り出すことがない。

 自己が捨てられる時、それは本当の自分、身体が生まれ変わったりしても、ずっと続いてゆく自分という意識をも超えて、誰でもない人、「無」に帰らなければならない。

「無」とは何か?

それは大海だったり、雲ひとつない青空だったりする。ではその青空とは、私たちの意識の源ということなのだろうか? それらはたとえに過ぎない。

覚者はこの「無」、誰でもないひと、大海、青空にたどりついた。それは永遠なるものに溶け込むということであり、それは一体どういうことなのか。

「そのとき、人は満ち溢れる」

そのときわたしはどうなるのか、想像すること、予想することは単に私自身のエゴを満足させるだけでしかない。私たちは、その境地を体験することでしか、言葉を使えない。

だから私たちは、覚者の言うことを絶えず自分の知識として身に付けてしまう過ちに対して、戒めなければならない。

私は覚者ではないのだから、何も知らない。しかし、「無」という言葉に私は以前から無性にひかれていたのだ。何よりも偽善じゃなく、自分に正直でいることが人間として大切だといつも思っている私は、この無について調べてみたくなりました。

太字引用:「そして花々が降りそそぐ(和尚)市民出版社刊」

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