« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »

2010年8月

2010年8月28日 (土)

愛と自由

人は他人から、その生命をおびやかされたくはないし、束縛されたくもない。それなのになぜ他人を支配し、束縛しようとするのだろう。

それは、ひとり孤独でいるのが恐いからなのだろう。

この恐いということが、他人から愛されなかったら生きてはいけないという恐怖を与えている。当然、他人に対しての信頼もない。

相手を支配し、攻撃しようとするのは、単に男性的な資質だけからというのではない。

それは、死すべき人間が、自分を護ってもらいたいと思うことの形を変えた姿でしかない。

私たちのこの生まれながらにしてある、死への恐怖を克服しない限り、人を支配したり、孤独からのがれるために誰か隣人や物質的な所有への渇望は途絶えることがない。

もし、自分が真に自由でいたいのなら、相手や他の人々をけっして束縛、支配しようとはしないだろう。そもそも自由でいることは、自分自身だけではなく、人間一人ひとりの独自性を認めることであり、受け入れることである。つまりそれが愛というものではないのか。

私たちは、常に何かに怯え、誰かを必要としている、所有し、支配するための誰かを‥

正義という名目のもとに、戦争が絶えず起きているのはなぜか

?

そういうことを議論すること自体、物事を複雑にしたがる人間のエゴのなせる技である。

争いや戦争は、自分だけが正しいのだということを、相手にわからせたいという思い込みゆえに起きている。

誰も絶対的に正しい者などいない。また、戦争は、とどのつまり、兄弟が母親からの愛情を独占したいがために、争うことから始まっている。つまり、誰もが愛情に飢えているということなのだ。愛情に飢えた人たちができることといえば、もっと相手に、他者に愛情を望むことでしかない。それゆえの闘争であり、戦いであるのだ。

無益である。

他人から愛情を必要としない人は、決して争いをしない。彼は自由そのものだ。私たちは、お互いに愛情を分け与えあう、自由人としての境地に至らなければ至福でいることは決してない。その意味では、この世界は、愛情に飢えた私たち自身が、愛に目覚めるための試練の場として存在しているのかもしれない。

私たちは、死すべき存在として、生まれてきた人間である。

それこそ不自由以外の何物でもないことを、深く理解しなければならない。

そうでなければ、戦争をいかにしてなくしたらいいのか? といった議論は全て的を外してしまう。

自由であることは、権力や支配、所有欲とは無縁である。

ひとは自らが真に自由であってこそ、人を愛すべき人物になれる。

そしてそれは、生と死を、男と女を超えるときでもある。

私は、そのような境地を目指すこころざしだけは、失いたくはない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2010年8月25日 (水)

真善美(11)

善悪を超えて(3)

私たちは、輪廻する時間と空間のこの世界に何の疑問もなく生かされているが、その法則の支配下に生きるということは、自分で何をしたら幸せになれ、何をしたら不幸になるかをよく知らないということでもある。それは不自由以外の何者でもない。この世界の因果の法則を理解する過程は、この世界から解放される過程でもあるように思う。それは、自分がこの世界の中で如何に生き、限りある人生のなかから、いかにして不滅の

意識を、時間と空間に縛られない意識を取り戻すかということに関わっている。

束の間の人生が、幾つもの生を結び合わせ、それらが繋がっていくとき、ひとは自分の意識の拡大する爽快感とともに喜びをもたらす。と同時に、それは束の間の人生からの解放と自由の獲得でもある。

もし私たちがこの輪廻する世界に身を置かないことを希望すればそれも実現するかもしれない。しかし、そうなるまでに、人は多くの苦しみをこの世界で味わい、そこから気づきのための学びをしなければならないのかもしれない。

いや、ただ苦しむことのなかから、一体何を学ぼうというのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月14日 (土)

真善美(10)

善悪を超えて(2)

覚者、いわゆる<気づき>の人、光明を得ることは、あなたの本性、真の仏性であるという。この本性に従えば、自らの内的な光に導かれた行為しかなさないため、間違った行ないはなされないという。その行ないは自らの内側から自発的に溢れ出してきた行為であるがゆえに善悪を超えているという。和尚は云う。

「覚者は自らの意識よりほかにいかなる戒律にも従わない。彼らは自らのともしびよりほかにいかなる経文にも従わない。彼らは何に従うこともなくも何を破ることもない。

彼らは善も成さず、悪も為さない。彼らはただ、善悪を超えた内発性から行為する。」

悪を為さないが善も為さないとはどういうことなのだろう?

この世界が善い種を蒔けば、善い結果が自分に戻ってくるからには、人は善い行ないをいっぱいしたいと願うものである。それなのに善も悪も為さずとは?

これは、私たちの因果律の世界、つまり生まれ変わる輪廻の世界から解放された状態を光明を得た人は達成していることを意味している。そこには個人として識別できる、ひととしてではなく、和尚が使う「臨在」「存在」「無心」「観照者」「純粋な意識」と同等な状態を指しているものと思っている。

覚者は真理を体得した者とされているが、真理とは既に「そうあるもの」そしてそれは永遠であり、生の神秘であり、それについて私たちが言及できる筋合いのものではないことを伺わせる。それは「ひとつあるもの」ということはできない。それはまた、ひとつということもできないのではないだろうか‥

「そうあるもの」が私たちの本性であり、それは別の言い方をすれば「慈悲」と言えるのかもしれない。

この世界が覚者からすれば幻想であるならば、では真実の実相は何なのか? 永遠の生とは何なのか? 

「変わることの無いもの」それこそ、わたしたちの本性に気づくことが価値あるものを探し求めてきた答えであり到達点である。しかし‥

和尚は、既にあなたは全体と呼べるもの、つまり「そうであるもの」から「道」から外れたことなど一度も無かったのだといい、問題は、今まで気づくことのできなかった原因である、「私のこころ」という幻想、そこから派生してきた、私の所有物、私の思考、私の感情、‥ このこころのなかにあるがらくたを一掃して「静寂」になることを勧めている。

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年8月 1日 (日)

真善美(9)

真善美(9)

善悪を超えて(1)

私たちの世界は、私たち自身が深い闇に閉ざされた心というものを持っていることで成り立つ世界である。

生病老死、生きるうえで避けて通れないこの過程こそ、この世界の特徴である。だとしたら、この世界で楽しむことにどれだけの執着があるのだろう? といいたくなる。

でも、僕らにとってこの世界はまだまだやりたいことがたくさんあり、僕たちを決して飽きさせることのない世界である、と本音でそう思っているのである。

光明を得た人というのは、自己を持っていない、そこには他と自を区別する分別が消えているのだという。ということは善の大家、鈴木さんの著書を借りるまでもなく、光明を得ることは、<無心>を達成することであり、一なるものへの覚醒である。

和尚云うには無心とは‥ただ純粋な意識だけがある。対象のある意識ではなく、意識そのものが‥ 光輝く<気づき>だけがある」状態をいう。

また、

「<気づき>の志向の頂きに到達した人たちに言わせれば、最大の虚妄とは真理を自らの外側に探し求めることー <存在>の意味や不滅性、生の永遠の流れを外側に求めることだ」

心はいつも外側に向いている。私を私だと思考するのは人間の心があるからに他ならず、この心自体が外側志向なのだという。それでは、無心になるとはこの人間の心から解放されないといけない。これが自分の心だと思っている人間のエゴとでも言う自我を無くさないと決して無心に到達することができないのだ。

善悪の判断にしても、結局は始めにこころありきなのであり、この世界を動かしているカルマの法則がその根拠となっている。したがって善い行いを他人にすれば、自分にいつしか帰ってくる、悪い行いをすれば、それが種となって、いつしか実を結んで帰ってくる、という時間と空間の因果律に基づいて世界は展開しているのである。

世の中は住みづらい、苦しいことばかりで、身体もそのうち滅びてしまう。若かくて美しい時期はあっという間に過ぎ去ってしまう。あのときよ、もう一度と言ってはため息をついてしまう。何よりもこの世はせっかく出逢った大切な家族といつまでも一緒にい続けることができない哀しみが絶えず、不安をともなって生きていかねばならないのだ。

そう考えると、この世は決して楽しい世界ではないと思う。

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年7月 | トップページ | 2010年9月 »