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2010年8月 1日 (日)

真善美(9)

真善美(9)

善悪を超えて(1)

私たちの世界は、私たち自身が深い闇に閉ざされた心というものを持っていることで成り立つ世界である。

生病老死、生きるうえで避けて通れないこの過程こそ、この世界の特徴である。だとしたら、この世界で楽しむことにどれだけの執着があるのだろう? といいたくなる。

でも、僕らにとってこの世界はまだまだやりたいことがたくさんあり、僕たちを決して飽きさせることのない世界である、と本音でそう思っているのである。

光明を得た人というのは、自己を持っていない、そこには他と自を区別する分別が消えているのだという。ということは善の大家、鈴木さんの著書を借りるまでもなく、光明を得ることは、<無心>を達成することであり、一なるものへの覚醒である。

和尚云うには無心とは‥ただ純粋な意識だけがある。対象のある意識ではなく、意識そのものが‥ 光輝く<気づき>だけがある」状態をいう。

また、

「<気づき>の志向の頂きに到達した人たちに言わせれば、最大の虚妄とは真理を自らの外側に探し求めることー <存在>の意味や不滅性、生の永遠の流れを外側に求めることだ」

心はいつも外側に向いている。私を私だと思考するのは人間の心があるからに他ならず、この心自体が外側志向なのだという。それでは、無心になるとはこの人間の心から解放されないといけない。これが自分の心だと思っている人間のエゴとでも言う自我を無くさないと決して無心に到達することができないのだ。

善悪の判断にしても、結局は始めにこころありきなのであり、この世界を動かしているカルマの法則がその根拠となっている。したがって善い行いを他人にすれば、自分にいつしか帰ってくる、悪い行いをすれば、それが種となって、いつしか実を結んで帰ってくる、という時間と空間の因果律に基づいて世界は展開しているのである。

世の中は住みづらい、苦しいことばかりで、身体もそのうち滅びてしまう。若かくて美しい時期はあっという間に過ぎ去ってしまう。あのときよ、もう一度と言ってはため息をついてしまう。何よりもこの世はせっかく出逢った大切な家族といつまでも一緒にい続けることができない哀しみが絶えず、不安をともなって生きていかねばならないのだ。

そう考えると、この世は決して楽しい世界ではないと思う。

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

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