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2010年7月 3日 (土)

真善美(6)

私たちは敢えて全体的な自然から分離し、苦悩を生み出すことによって、私たちひとり一人が改めて全体の一員であることを自覚するために、この世界に投げ出されたようなものではなかったのだろうか? いや、そう考えるのも私の自我を満足させるだけなのだろう。

私たちは最初から生の全体から分離してはいない。ただそのことに気づいていないだけなのかもしれない。生の全体と離れてどうして一瞬たりとも生きていけるのだろうか?

それは在り得ない。

私たちの身体の自然、周囲の木々や小鳥のさえずりや、森の新緑や、紅葉の自然、冬の景色、よく見ればどれも美しい。どうして今までこの美しさに気づかなかったのだろう?

美しさは、真理へと続く道。美しさは宝石の輝きに魅せらるだけに終わってはいけない。それをこころの中の糧とするのだ。自分自身が美しい宝石になってこそ、それは実を結ぶ。

和尚曰く

「真、善、美の三つの側面を知ったら、驚くだろう。ひとつでも、あなたの内側で動き始めたら、ほかのふたつもおのずと活動しはじめる。そして、三種類の人々がいることを言っておかねばならない。ひとつのタイプは、真理の側面にいち早く目覚める可能性を持っている人。ふたつめのタイプは、善の側面にいち早く開花する可能性を持っている人。そして三つめのタイプは、美の側面にいち早く開花する可能性を持っている人だ。

 あなたがたそれぞれに際立つ側面がある。しかし、ひとつの側面でも活性化したら、ほかのふたつはおのずと活性化する。その人が美を愛する人であれば、嘘つきにならないだろう。嘘をつくのは、とても醜いことなのだから。美を愛する人なら、間違いは犯せないだろう。間違いを犯すのはとても醜いことなのだから。つまり盗みは醜いから、彼には盗むことができない。彼が完全に美に身を捧げたら、そのおかげで多くのことが可能になるだろう。」

太字引用:「ディヤン・スートラー瞑想の道:OSHO,市民出版社」

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