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2010年7月

2010年7月23日 (金)

真善美(8)

<気づき>が自分自身の内側に起こらないかぎり、すべての文化は誰にでも容易に破壊されてしまう薄皮でしかない。だがひとたび、道徳が一定の訓練からではなく、自己の覚醒から生まれてきたなら、それは全面的に違ったものになる。そうなったら、あなたはあらゆる状況に<気づき>から応ずることができる。あなたのするあらゆることが善になる。

私たちはまだ覚醒していないが故に、悪を犯してしまう。その悪とは破壊的な行為、生のあらゆる営みを傷つけ、破壊してしまうという行為だ。誰も自分を傷つけられたくない。そのためにまずは相手を攻撃しようとは、何という貧しい発想なのだろう。現実はそういう人たちが多勢であるということを認識せざるを得ない。自分達? という幻想の砦を守るために、自分を脅かされることの恐れから他人?を攻撃する。その醜さをまず理解しなければ、私たちは決して変わることができない。

<気づき>があるとき、なにひとつ悪を犯すことはできない。それが<気づき>の究極の美しさだ。なんであれ<気づき>から出てくるものは、純粋に美しく、純粋に正しく、いかなる努力もなく、実践もない。

気づきの過程とは、世界の真理についての深い洞察を超えて自分が真理そのものになるということ。言い換えれば、世界を息づかせる「道」タオそのものに立ち戻ることを意味する。

そのとき、人は過ちや間違いを犯さなくなる。命あるものを傷つけようとしなくなる。非暴力は気づきからもたらされ、それは善であり、美しさである。その行ないに努力は必要ない。なぜなら、それはあなたの本性そのものであるから。

私たちは、自分の中の神聖な本性に気づいていない。自我という幻想で曇らされた幾つもの自分を「これが自分だ」と誤認しているのに過ぎない。そういう意味では私たちの心の闇は深いものがある。その深さゆえに、この輪廻転生の世界が存在しているのかもしれない。

真理への情熱は気づきをもたらし、気づきfは美しさと、無条件の善き行ないをいざなう。

ここに真理と善と美が繋がっている予感がするのである。

もっと意識的になりなさい。そうすれば、あなたを通じて起こることはなんであれ<存在>をさらに美しくし、さらに神聖にし、さらに完成させる。<気づき>はあなたに花々をもたらすだけではなく、何百万人もの人々にかぐわしい香りをもたらす。

あなたを通じて、存在の化身の1人であるあなたを通じて、その純粋な美しさを、全き善をこの有限の世界に顕そうとしている。

無限の世界は完璧なのだろう。その世界が私たちを通じて、この世界をより美しい世界にしようとしているのではないだろうか?

<気づき>は神への扉を開ける、黄金の扉だ。

以上太字:「ボーディダルマ」OSHO,めるくまーる社,引用

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2010年7月18日 (日)

真善美(7)

気づき

人間の道徳性が社会規範から生まれたものであるなら、それは偽善に過ぎない。

社会が人に教える徳育というのは、人のために役立つようになれとか、他人に好かれるようになれとか、相手を傷つけてはいけないとか、毎日善い事をしなさいとか教えられてきた。しかし、他人から強制された道徳性は人間の野蛮な本性を変えることはできない。

例えば、誰かのことを憎くて仕方の無い人に何を忠告しても無駄なように、なぜ憎いのか、その原因に気づき、憎むと自分がどう不幸になるかを本人が理解した方が真に道徳的になれるような気がする。自分を傷つけた相手を「憎む」という問題の性質に真正面から向き合わない限り、彼のこころの重荷は降ろすことができない。相手を憎むことが自分をどう傷つけるか、そんなもの知ったことではない。要するに、相手には自分と同様の仕打ちをし返してやるまでは納まることができないのだ。そうして私たちは同じ不幸の渦に巻き込まれていく。

不幸の連鎖はこうして際限なく続いてゆく。

問題の根本は私たちが変わらない限り、何も変わっていかないということ。そして、この矛盾だらけの世の中がどうしてあるのかということだ。

私はこの生きている世界は素晴らしさを味わうことができる世界であると思える一方で、生き物にとっては試練の世界であるようである。なぜ私たちは限られた生を生きなければ成らないのか? そのことは私たちの生きている世界とはもっと別の、というか私たちの把握できない世界の存在を憧れてしまう。

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2010年7月10日 (土)

権力と依存

自分達の平和を守るために敵と戦うという発想はこの世界の産物である。

私たちは、幾世において、絶えず戦争を繰り返してきた。何のために? 自分達を脅かそうとする者がいるからに他ならない。その脅かそうとする者は、自分達の心の中に居た。それがたまたま仮想敵国を作り出し、そうして自分達が支配される前に相手を支配しようとした。一体どちらが先に仕掛けたのかわかったものではない。

根本的に私たちは好戦的な人類である。というのも、権力や地位、名誉といったおよそエゴを強化するゲームが好きだからである。

女性は、というと、敗戦国の女性たちはそれこそ、不当な苦しみにじっと耐え忍んできた。女性は人形と同様に扱われる屈辱に耐えねばならなかった。なぜだろう? 女性の本質は受動的だからだ。もし、世の中の政治家の半数が女性になったら、きっと戦争はなくなっているのかもしれない。争いは話し合いで解決できるはずだからだ。

私たちは、自分達の中にある、相手を支配したいという欲求をなんとかしないと、決して戦争はなくならない。政治家はその最たるものだ。どうして、相手を意のままにあやつりたいのか? 誰も奴隷になど成りたくない。一方で、自分の人生の責任を回避したい人たちがいる。

「私は自分のすることに責任をもたないけど、あなたにすべておまかせします。」奴隷になんか成りたくないと言っている人が、政治家に「もっと私たちのために住み良い暮らしにしてください」とどうして言えるのですか? それは私はあなたがたの奴隷に成りたいです、と言っていることと似たようなものだ。

世の中は、支配したい人と支配されたい人で成り立っている。だからこそ、それはそれで仕方が無い。国家同士の争いとは、自分達の縄張り争いでしかない。その大元は家庭にある。男と女のどちらかが、依存してしまう。自分らしく生きる術を捨てて、生きる権利を相手に委ねてしまう。事のはじまりは、自分で立って歩くように教育されていないことにあるのではないか。家庭が国家に依存し国家が家庭を束縛する。そうして権力者と被支配者の関係が成り立った。そしてそこには境界が生まれ、利益争奪の微妙な力学が発生してしまった。

そもそもの始まりから、あなたは周りによって不自由な教育を施されて生きてきた。

生まれて最初に掛けるボタンを間違ってはめ込まされてしまった人たちは多い。ただ、そのことに気づけるのは自分でしかない。

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2010年7月 3日 (土)

真善美(6)

私たちは敢えて全体的な自然から分離し、苦悩を生み出すことによって、私たちひとり一人が改めて全体の一員であることを自覚するために、この世界に投げ出されたようなものではなかったのだろうか? いや、そう考えるのも私の自我を満足させるだけなのだろう。

私たちは最初から生の全体から分離してはいない。ただそのことに気づいていないだけなのかもしれない。生の全体と離れてどうして一瞬たりとも生きていけるのだろうか?

それは在り得ない。

私たちの身体の自然、周囲の木々や小鳥のさえずりや、森の新緑や、紅葉の自然、冬の景色、よく見ればどれも美しい。どうして今までこの美しさに気づかなかったのだろう?

美しさは、真理へと続く道。美しさは宝石の輝きに魅せらるだけに終わってはいけない。それをこころの中の糧とするのだ。自分自身が美しい宝石になってこそ、それは実を結ぶ。

和尚曰く

「真、善、美の三つの側面を知ったら、驚くだろう。ひとつでも、あなたの内側で動き始めたら、ほかのふたつもおのずと活動しはじめる。そして、三種類の人々がいることを言っておかねばならない。ひとつのタイプは、真理の側面にいち早く目覚める可能性を持っている人。ふたつめのタイプは、善の側面にいち早く開花する可能性を持っている人。そして三つめのタイプは、美の側面にいち早く開花する可能性を持っている人だ。

 あなたがたそれぞれに際立つ側面がある。しかし、ひとつの側面でも活性化したら、ほかのふたつはおのずと活性化する。その人が美を愛する人であれば、嘘つきにならないだろう。嘘をつくのは、とても醜いことなのだから。美を愛する人なら、間違いは犯せないだろう。間違いを犯すのはとても醜いことなのだから。つまり盗みは醜いから、彼には盗むことができない。彼が完全に美に身を捧げたら、そのおかげで多くのことが可能になるだろう。」

太字引用:「ディヤン・スートラー瞑想の道:OSHO,市民出版社」

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