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2010年7月18日 (日)

真善美(7)

気づき

人間の道徳性が社会規範から生まれたものであるなら、それは偽善に過ぎない。

社会が人に教える徳育というのは、人のために役立つようになれとか、他人に好かれるようになれとか、相手を傷つけてはいけないとか、毎日善い事をしなさいとか教えられてきた。しかし、他人から強制された道徳性は人間の野蛮な本性を変えることはできない。

例えば、誰かのことを憎くて仕方の無い人に何を忠告しても無駄なように、なぜ憎いのか、その原因に気づき、憎むと自分がどう不幸になるかを本人が理解した方が真に道徳的になれるような気がする。自分を傷つけた相手を「憎む」という問題の性質に真正面から向き合わない限り、彼のこころの重荷は降ろすことができない。相手を憎むことが自分をどう傷つけるか、そんなもの知ったことではない。要するに、相手には自分と同様の仕打ちをし返してやるまでは納まることができないのだ。そうして私たちは同じ不幸の渦に巻き込まれていく。

不幸の連鎖はこうして際限なく続いてゆく。

問題の根本は私たちが変わらない限り、何も変わっていかないということ。そして、この矛盾だらけの世の中がどうしてあるのかということだ。

私はこの生きている世界は素晴らしさを味わうことができる世界であると思える一方で、生き物にとっては試練の世界であるようである。なぜ私たちは限られた生を生きなければ成らないのか? そのことは私たちの生きている世界とはもっと別の、というか私たちの把握できない世界の存在を憧れてしまう。

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