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2010年6月21日 (月)

真善美(4)

何が善き行ないで何が悪い行ないであるのだろう。その行ないによって誰かが苦痛をもたらすとき、それは悪い行ないである。誰かが「他人を喜ばせる行ないが善である」、ということを言っていたと思うけど、それでは片手落ちではないか。いくら相手を喜ばす行為であっても、その行為に自分自身の心身が痛めつけられたのでは、良き行ないとはいえない。

痛みのあるところには執着があり、執着のあるところには時間がある。その時間とは目標達成のための希望の時間だったり、復習のための時間だったりする。しかし、和尚によれば時間とは幻想であるといい、不幸を表す代名詞だともいう。

時間のない今こそが、全てであり、永遠の今であり、真理そのものであるというわけである。

さて、善き行ないとは、自分の中の良心に従って生きることであり、それは心の中の自然に従って生きるということなのではないだろうか。

苦痛が時には、その人の成長にとって必要な場合もあるだろう。しかし、そこから得るものといえば、やはり自分たちはお互いに繋がっており、絶えず影響しあっているともいえる。成長のための痛みは、それまでの悪しき習慣など居心地の良かった生活パターンからの脱却からくるものであるから、それは不可欠な痛みであろう。一方で生き物を傷つける行ない、命を傷つけ、奪い合うことの痛みは悪い行ないである。動物と違って、人は本能による食物連鎖の域を脱してしまう。そこに自然を逸脱し、ゆがめられた行為が起きてくる。その行為は、カルマの法則によって、世界の滅亡にまで行き着いてしまう。自然の営みは決してそんなことはしない。

自然こそが善悪の基準である。それは個人の社会規範の産物である道徳性よりももっと良心的であり、それは超道徳的ともいえる。自分のなかの「自然」に目を向けてみよう。抑圧や変質、ゆがみなどいっさい無い純粋なこころに立ち戻ったところに、何が真に善き行ないなのか、おのずから見えてくるはずである。

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