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2010年6月15日 (火)

真善美(2)

真理を表す言葉として、真、善、美がある。

真理への道は究極の美への道であり、善の行いの結果である。この三者は真理の異なる三つの側面のように思われる。

和尚によれば、私たちの思考には不純な思考と純粋な思考があるという。

不純な思考とは、お金やセックス、権力のことばかり考えている状態であり、純粋な思考とは、真、善、美のどれか一つでも内省している状態であるという。

真理への道とは、私たちが自然の一部であることに気づく旅であり、その過程で周りにいる人々や動植物、自然の生き生きとした姿に感謝や慈悲の念を抱くこころが美であり、そこから何が善い行いで、何が悪い行いであるかは自ずから判別できるものである。

私たちがそれを判別できないでいるのは、真理に遠いところで思考を巡らしているからに他ならない。

例えば、誰かに振るう暴力的な行為は、それが醜いものであるということを本人は自覚していない。もし自覚できていれば、そのような行為を行なう選択肢は彼の中にはないはずである。なぜなら、醜いと自分でわかっている行為は既に彼の中から消えているからである。それは暗闇の中で、突然、光を発見するようなものである。暗闇は無意識な心の状態を指し、光は意識的な心の状態を指す。つまり、暗闇のなかに光が差し込めば、そこに暗闇はなくなってしまう。それは、光と闇の対立というように相対化されるものではない。光の不在が闇であり、闇は光の不在である。

同じ事が醜いものを醜いと理解することで、醜い行いを自分からしなくなるのである。

「僕はそれがいけないこととわかっているけど、僕の中の動物的本能が、そうさせてしまうんだ」という言い訳は、彼がその行ないを悪いことだとわかっていることにはならない。それは言い訳に過ぎないのである。悪いことだとわかった地点で、その本能的な行ないは彼の中から削除されるのである。というよりは、その悪いと思う行ないを行なうとか行わないとかいう選択肢が彼の中にはなくなっているということである。言い換えるならその行ないは、彼のなかでは、その悪いと思われる行いがとても醜く映るが故に、彼の行ないの選択肢にはなりえないのである。

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