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2010年6月

2010年6月28日 (月)

真善美(5)

美とは何だろう?

はたから美しく見えることの基準はどこにあるのだろうか。数学的に美しく見える顔の形があるといい、その形に数学的な整合性がみられるというのである。好みの問題もあるが、それ以上に美しいとみなされる女性の数が美男子とみなされる男性の数よりも圧倒的に多いのはなぜだろう? そこには美しいとされるものの法則が働いているはずである。私たちが美しいと思っているものの多くは数学的に整然とした自然の整合性に魅せられている結果なのかもしれない。

周りにある自然を観察してみると、小鳥のかすかなさえずり、小さな昆虫の色合いにさえ感動を覚えてしまうことがある。こんな色合いを人工的に作るのはさぞ難しいだろう‥と。

私たちは自然の創り出す美しさに惹かれ、それになんとか近づくようにと、模倣し、創作する。人間の手による美の再創造に芸術の一端を覗いてしまう。

人間は、自然から「美」の何たるかを学び、それをよく観察することによって自分たちの芸術性を高めてきた。自然は「美」の宝庫である。天然石ひとつ取っても、それはただの石ころに過ぎない。それを私たちが磨き上げることによって、そこに隠れていた「美」を引き出すのであった。私たちは自然というものに触れれば触れるほど、「美しさ」に対する感性が磨き上げられているのがわかる。私たちは私たち自身も含めて、自然への憧憬から限りなく多くを学びえる存在でもあるのだ。

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2010年6月21日 (月)

真善美(4)

何が善き行ないで何が悪い行ないであるのだろう。その行ないによって誰かが苦痛をもたらすとき、それは悪い行ないである。誰かが「他人を喜ばせる行ないが善である」、ということを言っていたと思うけど、それでは片手落ちではないか。いくら相手を喜ばす行為であっても、その行為に自分自身の心身が痛めつけられたのでは、良き行ないとはいえない。

痛みのあるところには執着があり、執着のあるところには時間がある。その時間とは目標達成のための希望の時間だったり、復習のための時間だったりする。しかし、和尚によれば時間とは幻想であるといい、不幸を表す代名詞だともいう。

時間のない今こそが、全てであり、永遠の今であり、真理そのものであるというわけである。

さて、善き行ないとは、自分の中の良心に従って生きることであり、それは心の中の自然に従って生きるということなのではないだろうか。

苦痛が時には、その人の成長にとって必要な場合もあるだろう。しかし、そこから得るものといえば、やはり自分たちはお互いに繋がっており、絶えず影響しあっているともいえる。成長のための痛みは、それまでの悪しき習慣など居心地の良かった生活パターンからの脱却からくるものであるから、それは不可欠な痛みであろう。一方で生き物を傷つける行ない、命を傷つけ、奪い合うことの痛みは悪い行ないである。動物と違って、人は本能による食物連鎖の域を脱してしまう。そこに自然を逸脱し、ゆがめられた行為が起きてくる。その行為は、カルマの法則によって、世界の滅亡にまで行き着いてしまう。自然の営みは決してそんなことはしない。

自然こそが善悪の基準である。それは個人の社会規範の産物である道徳性よりももっと良心的であり、それは超道徳的ともいえる。自分のなかの「自然」に目を向けてみよう。抑圧や変質、ゆがみなどいっさい無い純粋なこころに立ち戻ったところに、何が真に善き行ないなのか、おのずから見えてくるはずである。

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2010年6月18日 (金)

真善美(3)

私たちはいつの世にも、何度も生まれ変わってきた。その生まれ変わりのなかで、本当に成長したといえるのだろうか?私たちは、物事を頭のなかでのみ理解しているのに過ぎない。本当に理解するということは、自分が変わるということである。言い訳は自分自身のエゴの得意技である。

さて、美しいもの、あなたは何が美しくて何が醜いか、その価値基準は人それぞれだと思うのだろうか?ひとそれぞれだと思うところには、美しいものを美しいと思うその人の能力の限界が、ひとそれぞれによって違うだけのことのような気がする。同様に醜いと思うもの、それもひとそれぞれに醜いと思う能力の限界がまちまちだということになる。

私たちは、真実なるものを求めるとき、それは美的なもの、善なる行為を求める生き方につながっているし、それらは同じ生の神秘の別々な側面のように感じるのである。

真実なるものは絶対的なものであり、それは状況によって変わったりしない。そういう真実性からみたわれわれの住む世界は相対的な世界なのである。だからこそ、私たちはこの世界で私たちの生き方の指針を決めないと、何度生まれ変わっても、人生をただ無駄に徒労に過ごすだけになってしまうのではないだろうか?

私たちは何よりも苦痛を避け、至福を望んでいる。私たちの魂のひとつひとつは例外なく至福を求めている。私たちの魂は、全体とひとつになることを望んでいる。そもそもひとつである筈の魂が、それを忘れてしまったのは自分から光をさえぎってしまったからではないのだろうか?

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2010年6月15日 (火)

真善美(2)

真理を表す言葉として、真、善、美がある。

真理への道は究極の美への道であり、善の行いの結果である。この三者は真理の異なる三つの側面のように思われる。

和尚によれば、私たちの思考には不純な思考と純粋な思考があるという。

不純な思考とは、お金やセックス、権力のことばかり考えている状態であり、純粋な思考とは、真、善、美のどれか一つでも内省している状態であるという。

真理への道とは、私たちが自然の一部であることに気づく旅であり、その過程で周りにいる人々や動植物、自然の生き生きとした姿に感謝や慈悲の念を抱くこころが美であり、そこから何が善い行いで、何が悪い行いであるかは自ずから判別できるものである。

私たちがそれを判別できないでいるのは、真理に遠いところで思考を巡らしているからに他ならない。

例えば、誰かに振るう暴力的な行為は、それが醜いものであるということを本人は自覚していない。もし自覚できていれば、そのような行為を行なう選択肢は彼の中にはないはずである。なぜなら、醜いと自分でわかっている行為は既に彼の中から消えているからである。それは暗闇の中で、突然、光を発見するようなものである。暗闇は無意識な心の状態を指し、光は意識的な心の状態を指す。つまり、暗闇のなかに光が差し込めば、そこに暗闇はなくなってしまう。それは、光と闇の対立というように相対化されるものではない。光の不在が闇であり、闇は光の不在である。

同じ事が醜いものを醜いと理解することで、醜い行いを自分からしなくなるのである。

「僕はそれがいけないこととわかっているけど、僕の中の動物的本能が、そうさせてしまうんだ」という言い訳は、彼がその行ないを悪いことだとわかっていることにはならない。それは言い訳に過ぎないのである。悪いことだとわかった地点で、その本能的な行ないは彼の中から削除されるのである。というよりは、その悪いと思う行ないを行なうとか行わないとかいう選択肢が彼の中にはなくなっているということである。言い換えるならその行ないは、彼のなかでは、その悪いと思われる行いがとても醜く映るが故に、彼の行ないの選択肢にはなりえないのである。

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2010年6月11日 (金)

真善美(1)

今の私たちは、道徳の規準がない。何をするにも、その行為の良し悪しをすべて、状況判断に任せて、相対化する傾向がある。もっとも、現代は、ずる賢く生きてきた者が勝ちを収める社会になっているからだ。いや、社会はずっと前から、正直者がバカをみるという世界だったのかもしれない。そうした、私たちの住む世界とは、動物が生き残るために弱肉強食の生存競争により生き残ったもののみがしあわせになれる世界なのであろうか?

お互いに気持ちよく共同生活を送るために作られた道徳性や社会規範というものは,時代とともに変化する、とでもいうのだろう。社会規範はそうでも道徳性というものは個人の内面の良心に関わる資質であるから、それは普遍的なもののように感じる。つまり、現代人は、社会の事情とともに変化する社会規範と個人の宗教性から生まれた道徳というものを混同しているような気がしてならない。

個人の内面の良心的な資質は普遍的であり、それは一面の真理であり、美学であり、善き行いをもたらすものである

。それはこの社会を動かす背景には、業(カルマ)の法則が働いており、それは個人一人ひとりの中で絶えず作用しているものだからである。そういったことも知らずに、人々は何が善い行いで何が悪しき行いであるのかを相対化してしまう。そうした過ちは、世界の真実についての道筋ガイドをもたない、或いはそれに対して全く無知だからに他ならない。

世の中を動かしているのは仏教でいうところの業(カルマの法則)であり、世の中と見えない世界もひっくるめた真実に少しでも目覚めれば、そのような行為の価値基準ははっきりと認識できるはずなのである。

私たちはわからないことや、物事を曖昧にすることによってそれ以上追及しようとしない。しかし、物事の真実や行為の是非における結果責任は私たちが思うよりはるかにクリアーなものなのである。

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2010年6月 5日 (土)

和尚(6)

今の私にとっては覚者からは、たとえ幻想の世界といわれようが、ここが現実であり、相変わらず独りではいられないし、淋しい存在であるということです。

私たちは言葉だけの理解として色々な情報を得ていますが、本当に必要なのは単なる情報ではなく、自己意識の変容です。真に自分を変える知識こそが知恵となるのであってそれ以上ではありません。

言葉の上の理解が無意味なように、私はわからないことはわからないこととして、講和録で述べられたことをこれからの日毎の経験の中から、ひとつひとつを抽出して自分自身の言葉として噛み砕いていかなければならないと思うのです。

私たちは単なる知識人であってはならず、いつも無知で謙虚な子供であるという自覚が必要なのであり、それがもっとも覚醒に近づく遠くて近い最善の道のりであると信じています。

そして、これからも影響を受けて気づいたことは書いていけたらと思います。けれどこれは、基本的に和尚の言葉から自分が感知したことを書くのであって、これを読まれる方が、それぞれに和尚の翻訳本を手にとって自分自身で読まれることをこころより願ってやみません。。

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2010年6月 2日 (水)

和尚(5)

彼が人々に投げかけるものは、永遠の今、この瞬間に生きるということであり、あくせくと野心と生存競争に明け暮れる世界から、時間のない世界へいざなうことです。

人々の意識は深いところでつながっており、それは元々ひとつあるということ、そしてそこにこそ永遠の真実が隠されているのだということ。これは光明を得た人物に共通して言えることです。

最近では「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる:徳間書店刊」という書を出しているエックハルトがそうです。それは教理や信条といったものではなく、人間の本質であり真実であるということです。

全体と離れて生きていると錯覚しているのは人間くらいで、今だかつて命の流れから分離して生きている者など誰もいないということです。

しかし、だからといって何か自分がわかったつもりで、私たちの意識はワンネス、元々一つであると、どうして覚醒していないのに云い切れるものでしょうか? 

和尚は中途半端に霊的な知識を持った状態が危険であると次のように述べています。

「真理に近づけば近づくほど、あなたが道をはずれる可能性は大きくなる。なぜなら真理にちかづくと、あなたは非常に自己中心的になりかねないからだ。「今や私は知っている」、「今や私は確個たる基盤を築いた」と。‥

真理に近づくと、それを人々と分かち合いたいという大きな欲望が湧いてくる。が、あなたは真理を余すところなく体得したわけではない。そして生半可な真理を分かち合うのは危うい。というのも、生半可な真理には強大な力があるので、嘘よりもいっそう危険だからだ。」

このお互いに真理を分かち合いたいという願望が、自分は知ってもいないのに単に聞いて知った知識をひけらかして気分が良くなっているということはよくあります。そしてそれが微妙なエゴの停滞であり、真理を遠いものにしているのです。だからいつも謙虚に知らないことは知らないとはっきり言うことが大切なのです。

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