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2010年4月

2010年4月30日 (金)

家族について(12)

いまも増え続ける老人人口を介護保険制度で、なんとかしようという政府のもくろみがそもそもいやらしい。子供たちは何をしているのか?

自分の子供を育てるので精一杯というが、少なくとも自分たちも両親から育ててもらった恩はあるはずである。

政府の見解だと、ゆくゆくは介護ヘルパーが24時間体制で見守り、何かあったらすぐにとんで行き、世話をするというもの。また、在宅か、施設かをご老人が選べるようにするというもの。しかし、この発想には根本的に欠けているものがある。それは愛情です。たとえヘルパーさんがどんなに優秀でも生活のために労働の対価として仕事をしている以上は、家族並みの情を求めることはできません。単に世話をするだけなら、そのうち介護ロボットが進化して、やってくれるだろう。

今のお年寄りは謙虚な人たちが増えている。自分の世話をしてもらうのが気の毒だというのである。一方で、ヘルパーさんに来てもらいたくないという理由の一つに自分の家であれこれいじくり回されたくない、人を信用できないという。

実の子供でさえ、親への愛情も薄れている昨今、信用できないのもわからなくもない。

結局誰も、自発的に愛情を示すことができない、いやしたくてもできない?言い訳のもとにただ、忙しくあくせくと生活のための生活者になってしまっています。

現代は愛を見失ってしまっている。しかし、だからこそそれだけ愛情に飢えている人の数も多いのが現状ではないのでしょうか。

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2010年4月29日 (木)

家族について(11)

老人

子供だけではなく、老人の独り暮らしの孤独死についても考えねばなりません。なぜ子供がいる人は子供に世話してもらえないのか? 今の介護保険では手続きが難しすぎて、老人には利用できないこと等、国の施策には問題があります。それも本人の立場になって考えられていないことが原因だと思います。週に二、三回のデイサービスでどれだけの世話が約束されるのでしょうか。

実の親子でさえ、親の面倒をみていこうとする人たちは少なくなってしまいました。なぜなのでしょうか?

兄弟姉妹が少なく、不自由なく育ってきた環境の人たちが大人になったということ、経済不況下で家計を圧迫している若年層の親たちの共働きが多いこと、などが考えられます。一方で、子育てが終わった熟年層の親たちは、自分の趣味のための時間が欲しい、会社勤めで精一杯という声が聞こえてきそうです。

働く独身者たちも、両親が、特に病気で寝たきりだと、ヘルパー任せになったり、会社を辞めてまで介護するということも最後の手段と考えています。

一人暮らしの老人は、誰にも看取られることもなく、最後を迎える可能性が高いのです。

これは私たちの今と将来に続いてゆく暗い現実でもあるのです。

老人虐待も、こうした背景から起こったりします。

高齢化社会が加速する今、老人の独り暮らしは小手先の介護保険制度でカバーし切れるものではありません。個人をしあわせにする家族の在り方が、真剣に問われているのです。

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2010年4月22日 (木)

家族について(10)

虐待

親が未熟であるか、精神的疾患を抱えているか、よほどのことがない限り幼児虐待という問題は起こらないのだと思います。現代の抱えるこの我が子の虐待については、別の問題が指摘されたりしています。

つまり、この日本においては経済的に成熟した社会でありながら、貧富の差が大きいのだということです。私たちは定職に就いている限り、中流生活ができていました。ところが今は経営者やトップと生産労働者との賃金格差が以前にも増して開いてきています。それ以上にデフレ社会で物が売れない状況で、必要労働者も減ってきており未だに求人倍率が1.0を超える気配はありません。派遣労働者の不安定な雇用の増加も生活者の貧富の差を拡大してきました。

親が子供を虐待するということの背景には、失業した親たちや、低賃金で働かされている両親のもとに生まれ育っている子供が多いといいます。このことは日本社会で子供が平等に育てられていないという現状を示しているといえます。

日々の生活に困っているストレスから、そのはけ口が子供に向いた結果、幼児虐待が起きるという構図があるというのです。なぜ、このような社会になってしまったのでしょうか?単に経営者や役員と労働者の格差が開くだけでなく、正規従業員と臨時社員、パートやアルバイトの格差も拡がってきています。これは毎日定職に就いて働いている人たちですら、失業者を始めとする不定期就労者の心情を理解しにくいという結果につながっています。幼児虐待は、「かわいそう」とか「ひどい親だ」でレッテルを貼られてしまうのではないでしょうか。

社会全体で子供を育てていかなければならないという政府の主張もわかりますが、私たちは単にお金を与えるだけで解決できないさまざまな問題を抱えていることにもっと気づく必要があるのではないでしょうか。

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2010年4月17日 (土)

家族について(9)

結婚してからいろいろなことで夫に幻滅し、愛情を注ぐ対象を息子に求めてでき愛し、子供の一人立ちに失敗した家庭、愛情を他に求めて家族崩壊してしまう家庭、それらは、現在の結婚があまりに固定的に縛られているからです。しかし、では結婚制度がなくなれば、私たちは上手く生きていけるのでしょうか? 

私たちは心理的に絶えず誰かに依存し、支えてもらわねばなりません。愛情を与える前に誰かから注がれたい、自分のことを十分に認めてもらいたいと思っています。これが権力志向となってお金や地位へのこだわりを生みます。私たちは皆、飢える狼、いや子羊なのかもしれません。子羊の私たちがいま必要としている家族は、かつてのように居心地の良いものではありません。かつてはなぜ居心地が良かったのでしょうか? 物が豊かになって自分たちが少しずつ、幸せになっていくのがわかるからだったと思います。何か新しい物が家の中に入ってくると、それが家族共通の豊かさの指標となって、もっと豊かになろうと共通の目標を定めて足並み揃えて頑張れるわけです。

ところが今は、個人がばらばらに自分たちの欲求を満たすべく進んでいます。

なぜそうなってきたのでしょうか? 物が豊かさの指標ではなくなってきたからです。不特定多数の人と気軽に付き合えても、ネットでお話できても、表面上のつきあいで納まってしまいます。心と心のぶつかり合いもなく、ただお互いに自分の利益になるかならないかが行動の指標になっています。また、情報があまりにも多いために個人の価値観が多様化し、それが家族間で共通の行動や時間をとることを阻んできています。

現代は家族から、個人へと分解した世相を呈しています。それは情報社会が進んできた結果ともとれます。家庭というものの基盤がいま危機にさらされています。

ひとり一人がいま、自分の孤独といやがおうでも向き合わざるを得なくなってきます。付き合う人たちの多さに伴って、家族の絆が薄れていく、そうでなくても家族間のコミュニケーションはちゃんと取れているのでしょうか? そうするのに意識的な努力が必要なのではないでしょうか。

現代社会は、個人意識の目覚めには良い環境があると思います。一方で、それは自分が孤独で寂しい存在なのだと気づかされるのです。気づけば、親身になって話し合える人がいないということも考えられるのです。そして、自分がひとりぼっちであると思い知ったとき、家族というものがもう一度見直されなければならなくなってくるのだと思います。私たちの家族とは、家族観は今後、一体どうなっていくのでしょうか?

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2010年4月 9日 (金)

桜の開花

今週末、私のところでは桜がちょうど見ごろです。

桜は、満開の時よりも、散り始めの時の方が美しく感じられています。

受粉を終え、その役目を果たしたはなびら

枝から離れた桜の花びらは

風に乗ってふわふわと宙を舞い、

河川に落ちてもなお、そこに漂って

私たちのこころをくすぐり続ける。

「そして(桜の?)花々が降りそそぐ」

‥マインドでも、覚者でも、物質でもないもの‥

その教えとは空だ。その教えとは、究極の無だ。そしてあなたが存在しないとき、全存在はあなたに花弁を開き始める‥

あなたが存在しないとき、全存在は歓喜に湧き、お祝いをする。

(桜の?)花々があなたに降り注ぐ。‥

あなたが空っぽのとき、もはや存在しないとき、‥

それは突然降り注ぎ始める。

桜が咲く、今の時期は、桜の花びらにそのものになってみたいと思う。

私がいないとき、と和尚がいうのは、エゴがないときである。

エゴがないときとはどういう時なのか?

わたしは知らない。‥多分

その答えが出るころには

もう文章など書いてはいないだろう。

言葉のうえでは、それは存在とひとつになったときなのだという。

自分というエゴが存在しなくなってはじめて存在と一つに

なれるのだろうか?

和尚は云う。

‥だから覚えておきなさい。

最後の解放は、あなたの解放ではない。

最後の解放は、あなたからの解放だ。

光明はあなたのものではない。

それはあり得ない

あなたが存在しないとき、それはそこにある。

自己を完全に落としなさい。--物質の世界、思考の世界、自己の世界――

この三つの層をすべて落とすのだ。

‥何も起こらないとき、すべてが起こる

あなたが無であるとき‥‥‥すべてがあなたに降り注ぎ始める。

桜の季節になると、いつも強く、桜の花びらに成りたいと思う。

花びらになって、その風を感じていたい‥

‥‥

太字引用:「そして花々が降り注ぐOSHO」市民出版社

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2010年4月 2日 (金)

家族について(8)

和尚は結婚をゲームのように気楽に受け止めればあなたは自由でありえると述べています。

好きな人と一緒にいたければしばらく暮らしてみようという試みはすんなり叶えられるし、それで相手と一緒にやっていけそうなら続ければいい。気持ちが離れればしばらく距離を置いて別々に暮らせばいい。そういう気楽さが今の結婚制度にはないと思います。このことは生涯一緒に暮らしたいという人がいれば、そのことを否定するものではありません。困難なことは、愛情が醒めているのに「誰かがいないと寂しい」という理由で結婚生活を続けている場合のことをいっているのです。

結婚制度は、子孫を残すことにつながっています。子孫を残すことのために結婚があるといっていいと思います。けれども子孫を残すことに両親は必要でしょうか。

子供は親の所有物ではありません。自分の分身ではありますが、子供の人生は尊重されるべきものです。両親だけの世界観、価値観によって子供の将来の可能性を狭められる理由はありません。学校教育があるといわれそうですが、子供にとっての生活の場はもっと広げられるべきです。殆どが親の影響から、またそこから抜け出すのに時間を要しています。いちばん感受性のある幼い時期に色んな大人たちから学ぶ機会を持つべきだと思います。両親の都合で離婚されたりすると、どちらかにつかなければならなくなる子供はいい迷惑です。

一人の異性に固執するあまり、嫉妬という問題も、今の結婚制度にはあります。

結婚制度のせいで、世の中風俗産業が必要になってしまったのです。男性的心理の本音は多くの異性と関係を持ちたい、女性的心理の傾向は、一度に一人の異性とだけつきあいたい、そして私たち人間は、男でもあり女でもあり、ただどちらの性質がより強いかという程度の差です。純粋に男性的な男性とか女性的な女性というものは存在しません。私たちは両性の間から生まれたからです。

私たちはより一方の極性の男性として、また女性として生まれてきました。そして、一生につきあっていくだろう異性に固執し、依存につながってしまうものとして現在の家族制度があります。

結婚制度とは、お互いに依存しあう関係を助長するものといえます。私たちの殆どはこの制度にしがみつかなければやっていけないのが現状ではないでしょうか。しかし、また、しがみつかなければ生きていけないほど、私たちは不自由な存在であったことに気づいてはいません。なぜなら、私たちは常に誰かの支えを必要としているからです。物理的な支えならお互い様でしょう。ただ、私たちは特定の誰かに依存しきってしまっています。そうでなかったら、独りでいるのが寂しくてつらくて悲しくて、いつも誰かにしがみついていないと、不安で仕方がありません。この私たちの心理的依存の傾向が、自分の、自分自身の人生を縛ってしまっている現状にあっては、今の結婚制度はなくてはならないものなのです。しかし、そのために闇に追いやられてしまった動物的性としての欲求はいつしか、不自然な形でそのはけ口を求めなければならなくなったのです。

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