« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »

2010年3月

2010年3月27日 (土)

家族について(7)

子供が愛情豊かに育つ土壌として、自分が愛され、その愛情深さを自分自身が十分に得られることが、必要です。そうした意味では必ずしも今の家族制度が正しく機能しているとはいえないことがわかってきます。

家族の中に自分のことを本当に愛してくれている、そういう雰囲気があってこそ、家族なのだと思います。そうしたことから、まず、結婚する男女の意識のあり方は今後どうなっていくのでしょうか?

今までは、好きという気持ちも持てずに結婚する人たちが少なくないのが現状でした。

自分が売れ残らないためにあせる場合、適齢期になるとみんな面白いように次々と結婚していく時代がありました。男性に多かったのは、世間体とか家事をしてくれるひとが欲しいとか、とにかく子供が欲しいので早く結婚したいとかいう場合でした。

長い間、家同士のつながりで生きてきた日本にあって、そのスタート台にさえ立てない人が未だにいるのかもしれませんが、今はとにかく本人が納得するまでお見合いなり恋愛なりしてみようという、冷静さがあるように思います。そこにはとことん、自分に見合った人を捜そうという個人意識の高まりがあるようです。

ところで、相手のことを好きという気持ちが単に欲しいものを手に入れる感覚でいる人たちも少なからずいると思います。つまり、相手のことを尊重することのできる大人に成り切れていない人たちの結婚は失敗に終わってしまいます。彼らは愛し方がわからないのかもしれません。

経済状態に困らない女性では、適齢期だとかであせらずに結婚を考えている人も多いと思います。彼女たちは心の中の異性像に導かれて外の世界でそれに当てはまる男性を捜そうともがいています。

つまるところ、外の世界の異性は自分のなかの異性像に気づくためのきっかけに過ぎません。自分の中の異性像に気づくまで人は外の世界で対象となる異性を代え続けるか、連れ添いの居るひとは,相手に対してしっくりしない部分を呑み込んで我慢し続けるしかないのです。そういうことがわかってくると、ひとは結婚制度そのものにますます疑問を持つようになるのでしょう。

自分の中の異性像を意識し始めた人、家庭を持ちたくても持てない人たちにとって結婚制度は悩みの種以外の何ものでもありません。結婚するということは、結婚式とか儀式に対するハードルの高さもありますが、家と家のしがらみから抜けられないめんどうくささが絡んでいると思います。もっと気軽に男女が一緒に生活できればいいのですが、そうなると結婚の意味が薄れてしまいます。

結婚生活は二人で始める人たちが増えていますが、家族の問題の多くは、この二人で始めるところから来ていることにあなたは気づいていますか? 二人で始めるのはわかるのですが、そこには世代間のコミュニケーションの重要性がありますが、現代は世代間の交流が難しくなっているのかもしれません。

プライバシーとしての結婚生活を維持しつつも、家族という世代間の断絶をなくした家族の在り方を探りたいと考えています。ここでも生きた知恵は、ネットからではなく、そばにいる誰かでなければならないように感じます。

要するに、人は誰かに見守られることなく、しあわせには生きてはいけないということ、なのだと思います。

だったら、しあわせに生きていくために家族生活はどうあるべきなのか? 私たちは現実の家族生活が決して幸福では在り得ないことを認識しなければ、決してこういった問いを発することはないでしょう。

あなたは今、誰かに見守られて生きていますか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月20日 (土)

家族について(6)

結婚

 結婚の目的は互いに自分たちを閉じ込め、自分たちを束縛することではない。その目的はあなた方が互いに成長するのを助け合うことだ。しかし、成長には自由が必要だ。

‥ 自由は愛の表現だ‥

「ニューウーマン誕生バグワン・シュリ・ラジニーシ めるくまーる」

今では離婚も増えてきましたが、昔は一度結婚すると、相手への愛情が失せても一生添い遂げなければならなかったとも聞きます。そもそも結婚とは和尚に寄れば時代遅れの制度であり、どんな制度も破壊的だとこの本で述べられています。

自由が愛の表現であるならば、その時の二人が愛し合っているのなら一緒に暮らせばいいし、どちらか一方が醒めてしまったなら、相手のために離れるのが自然なのかもしれない。大事なのはそのときであり、その瞬間の自分の気持ちではないでしょうか?

誰一人日々、変わらない人はいません。体の構成要素が新陳代謝するように、こころも日々、移ろってゆくのです。

愛情が冷めても子供がいるから、子供のためにといって別れられない夫婦は単に体裁を重んじているだけなのかもしれません。お互いに愛情が感じられない夫婦生活は何よりも子供のこころを害するものだということをわかっていません。親が子供を愛するのは自然だと思われるでしょう。しかし、単に血のつながった自分の子供だから愛しているというのは、本当の愛情ではないと思います。それは自分の延長線上にある自分を愛しているだけであって、別人格としての一人の人間を愛しているわけではありません。本当に慈悲という意味での愛情があるならば、相手が血のつながりがあろうとなかろうと関係ないものであると思います。

夫婦間で愛情が冷え切っていれば、子供は親からの愛情を注がれにくいものだと思います。それは親自身が愛情に飢えており、子供に与えるだけのこころの豊かさがない場合が多いからです。そういう両親に育てられた子供の多くは、愛情に飢えた大人になって、またしても誰かに愛情を注ぐというこころの豊かさも育ってはいないことが多いのではないでしょうか?愛情のお手本ではないけれど、家族の誰かが、自分のことをいつも心配してくれているという幼少時代があった人で愛情に飢えた人は少ないと聞きます。

真の愛情とは相手のために、相手の中に自分を生かしていくことであると思います。それは自分を見失うことではありません。相手が生活の中心となるのです。相手の生活と共存し、お互いが生かされるように支えあっていくことなのではないでしょうか?結婚生活とはその試みの場であり、さらにはその生活を通して、自分自身の内なる異性を自覚していくということなのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月16日 (火)

家族について(5)

ネット社会の人とのつながりは、それを娯楽と捉えるには問題ないでしょう。人は孤独にあって、誰か話し相手が欲しいとき、その欲求を手軽に満たしてくれるのがネットによるコミュニケーションなのですから。ただ、そこに人生相談を持ち込んで、のめり込んでは危険だということです。

共通の趣味など出会いの場を提供してくれる点でもネット社会は貢献しています。しかし、その反面、人々は自分の好みや嗜好がより洗練されてきています。それは物に関する限り問題ないのですが、人間に対してもシビアな見る目が養われてきます。また不特定多数の人と会話めいたことをするために、その中の一人一人は決して自分にとってかけがえの無い人とはなりにくい面があります。

うつの人に関して言えば、家族と同様、その一人一人がかけがえの無い存在的な一面を持ちます。そうした人をネットで捜すのには限界があると思います。

うつの人にとって必要なのは自分の症状をよく分かろうとしてくれる良き理解者であり、かけがえの無い存在なのです。そういう人が、周りにいないという人たちが増えています。

今の社会は家族が解体され、それぞれが家族間の親密さがなくなってしまいつつあるのではないでしょうか。親と子供のコミュニケーションが少ないのがその現れだと思います。皮肉なことに、ネット社会の発展とともに家族間の会話が減ってきたような気がします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月12日 (金)

家族について(4)

ネット社会にすっかりはまり込んでいる現代、そこからこぼれ落ちている人たちが居ます。多くの独居老人にとって、残念なことにインターネットは無縁の世界です。

私たちは多くの情報を携帯やパソコンで知ることができます。しかし、情報は共有すればするほど、個性というものを見失わせてしまう恐れがあります。

また、ネットは個々で直接会わずに関係を持つことができる反面、人と人とのつながりは限定的なものに過ぎません。そこでは言葉のつながりしかないのです。

あなたは匿名のAさんであり私は別の匿名のBさんです。

ネット上で優しい言葉をかけられたからそれで安心するという人も居るでしょう。しかし、それは気休めにしかなりません。そばに話しかける誰もいないことほどつらいことはありません。

大切なことは、誰かから愛情を与えられることによって、その人自身が相手に愛情を注ぐことの出来る人になれるということです。そういう愛は言葉のやりとりだけで伝わるものだとは思えません。

ひとは、自分の孤独感を埋めてもらいたくていつも誰かにささやきかけて欲しいのです。そしてそれは生身の人間との生活やふれあいの場の中で親しくなり、孤独は次第に解消されるものだと思います。

本当の愛を注いでくれる人、それはやはり共に生活をしている人ということになります。その愛は自分の生活をかけて相手を変えていく力とならなければなりません。自己中心的な面をのぞかせては、相手はそれを愛情として受け入れてはくれません。

うつ病が増えた現代の社会は、愛情不足で愛に飢えている人が多いということなのかもしれません。家族との関連に立ち戻ってみたら、そこに家庭はあっても家族の一員として生きてはいない人たちが増えているということなのでしょう。

家族とは何か? どういう家族のあり方がいいのか? 

それは生涯独身者が増えていることと、孤独死が増えているという現実によって真剣に問われているのです。それは家庭のある人たちでも近い将来、起きることかもしれないのです。うつ病のひとを増やさないためには、周りの誰か一人が、真に愛情を以って接してくれるひとがいないと駄目なのです。そうでないと、本人は愛してもらいたいために、背伸びした自分を演じ続けてしまうかもしれません。こころのどこかで不自然な状態を抱える限り、その人のうつは決して解消されません。

うつのひとは、周りに親身になって話せる話し相手が少ないことも問題になっています。

家庭で、家族がもう少しいたら、違う世代の話し相手がいたなら、もっとうつになる人が減るのではないでしょうか? うつから来る寂しさは、話し相手がいない、一人ぼっちで悩み事を相談できる相手がいないことで、ますますひどくなっていきます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2010年3月 6日 (土)

家族について(3)

うつの傾向

うつ病になる人たちが増えています。それは単に家庭の守りが弱くなったこととも関係しているのかもしれません。現代人はストレスに弱いといっていますが、昔もそれなりにストレスがあったことを考えると、現代人はそれだけひ弱になってきているのでしょうか?

現代社会がよりストレスが大きいのかというと確かにそれはあると言えます。というのも、文明化された社会では、自然な生活がしにくいということがあります。深夜まで残業したり、深夜労働したり、生活のサイクルが狂ってしまうことが要因でもあります。会社では取引先の人間関係や顧客からの厳しい対応に迫られるといったこともあるかもしれません。

専業主婦で昼は一人ぼっちの人や、隣近所のつながりが希薄で友達も殆どできない人などは、話し相手がいないというストレスがかかります。子供のいる人は学校から帰ってくるまで犯罪に巻き込まれたりしていないか不安で仕方がありません。

1人暮らしの老人が増えています。いつ自分が誰にも知られずに死んでしまうかわからない不安を抱えています。だから、日頃から健康維持ということに気をつけ神経をすりきらせています。それ以上に話し相手か゛いないことの淋しさがいちばんこたえているのではないでしょうか。

世の中不安だらけの現代ではないかといいますが、不安ということでは過去の歴史ではもっと不安定な時代もあったような気がします。飢餓に見まわれ、食べるものに困り家族の誰かを手放さなければならなかったときもあるでしょう。その時代に比べたら現代はまだましな方なのかもしれません。

それでは現代の人たちがなぜこれほどの不安を抱えているのでしょうか? それはやはり家族間での信頼関係や守られているといった結びつきが希薄だからではないでしょうか。家族の信頼がなければ、人は外にその不安を解消してくれるものを求めざるを得ません。

思うにマスコミが語るニュースなどは私たちの不安をあおるものばかりです。私たちはもっとマスメディアというものに距離を置いて接しないと自分の意見というものをもたない群集に成り下がってしまいます。しかし、話し相手がいない、核家族の主婦や1人暮らしの若者たちは、テレビやゲームの世界に埋没して、現実の孤独を埋めようとしています。

私たちは、自分自身のことを考えれば考えるほど、孤独を感じます。孤独であるということは、それまでに愛情を注がれてこなかったということもありますが、それ以上に家族のつながりが薄れてきた現代が抱える暗闇なのではないのでしょうか?

家のつながりで生きてきた時代から、個人ということが自覚された今、それが単に自分中心の共通の趣味や共通の関心事の仲間の生活体系をつくるようになった。その一方で世代間の会話が減ってきてしまったのだと思います。

いまの家族は決して安らげる城ではなくなっているのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年2月 | トップページ | 2010年4月 »