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2010年2月

2010年2月26日 (金)

家族について(2)

結婚難

 ひと昔前までは、政略結婚や、お見合い結婚など、当事者にお互いの愛情が感じられなくても結婚することが可能でした。今はその大半が恋愛結婚です。しかしいくら恋愛して結婚したところで、愛情がそのうち醒めてしまうかもしれない。そう考えた時、人の愛情のうつろ安さを感じてしまうのです。だったら、一緒になってからでも愛情が芽生えるかもしれない。そう考えると、お見合いでも恋愛でも、結婚するのにどちらでもいいではないかと考えます。

私たちが考えている愛とは、あくまで自分の利益中心で考えるところの愛です。相手の中に自分を投げ出すというものではありません。セックスにしたって自分が満足したいがために相手を選んでしまうものであって、それは動物的な本能に基づいています。自分のペースで生活し、それに見合った相手を捜している現代人はますます結婚ということが遠のいてきてしまいます。また、昨今の就職難から正社員になれない男性が、収入の不安定さから結婚できない状況も生まれてきています。一方で結婚しなくても生活していける人たちが、あくまで自分の理想を描いてそれを追い求め続ける人たちがいます。もう一方で結婚したくてもできないでもがき続けている人たちがいます。

仮に結婚できたとしても、私たちの大半は、相手のなかに神さまを見たり、見返りを期待しない愛情を注いでいると断言できる人は一体どれだけいるのでしょうか?

本物の愛を知らない人たちの結婚は、そこから生まれてくる子供たちにも当然影響を与えます。子供は唯一家族の本物の愛情から育ち、成長していくのです。

現代の家族とは、愛情を注がれなかったために、誰かから愛情を与えてくれることに飢えている家族であり、そのような家族がひとり一人を守り育てていくことなど到底できないのではないでしょうか?

両親ができなかったら、その上の世代がカバーしていく、または家族の誰か1人で良いから愛情を与えられる人でいることが大切です。現代の家族ではそれが叶いません。それなら三世代家族に戻れるかと言えばそれもできない状況であるのだと思います。

いまだに日本社会は、家庭より会社中心の社会です。定年になって家族が崩壊して初めて、いままでの努力は何だったのか? ということに気づくのです。

そういう私は家庭中心にならなければならないと思っているわけではありません。家庭に守られて生きてこそ、一人前の社会人として働いてゆけるということです。会社を含めた社会で働く意味は、家庭での人と人との絆があってこそ自分がそこで生かされるのだということです。その絆を社会にひろめようとするところに、人間の本来の姿があり、そこに立ち返ることが自分自身を取り戻すということです。残念ながら、それができずに一人孤独に陥って、愛情や絆を求めてさまようことだけにエネルギーを費やしている人たちは少なくないのではないでしょうか。そうでなかったらもっと社会は住み易くなっていたと思います。

現代の人々は自分のスケジュールで動き、社会に奉仕するなどといいながら、より一層の孤独感に陥っているのではないでしょうか?家庭の基礎が揺らいでいるために、人々はより不安を抱えて仕事をしているような気がします。

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2010年2月18日 (木)

家族について(1)

提言

生涯独身者が増えつつあるこの頃です。全体の4人に1人が独身者となるのはそう遠いことではないらしい。それは単身世帯が増えるということでもあります。

今は両親と同居して暮らす人々も減ってきている。独居老人の数も増えているという。

一人暮らしが問題となるのは、年老いて孤独死につながる率が高くなることだろう。最近は無縁社会などと、孤独の内に死期を迎える人たちが増えてきています。

そういう不安を回避したくて近頃は、友人同士で老後を一つ屋根の下で暮らすという形態もでてきているらしい。

老人ホームではなく、年寄り家族でもない、もっと三世代以上にわたるコミュニティの可能性はないのでしょうか?

私がそう尋ねるのは近頃の家族が、こころのケアを満たしていないと思うからである。

家族ということの一番の存在意義は、経済的にも、精神的にも守られているということである。本来のそうあるべき機能を現在の家族は果たしていないように思うのです。

だからといって家族とは、社会規範を教えるべき基礎集団だとしか考えるわけではありません。以前の大家族の世代では、そのような意味合いも含まれていましたが、今では親自身が社会規範など持たず、そのような社会人としてのルールさえも教えられていないのが実態なのではないでしょうか?

何も難しいことを言っているわけではなく、「相手にしていることが、もし自分にされたらどうだろうか?」 というちょっと想像するだけのこころのゆとりがあるのだろうかということです。

その時代の社会規範などというものは、絶対的なものではなく、他律的に押し付けられたものでしかありません。それぞれの利害が一致しないために一定のルールをつくってさも平等であるかのような体裁をつくろってきているのです。

自分の生活中心で、自分の利害を優先することしか考えられないという人間社会が基礎となっているからこそ、社会規範が必要であるということです。

言い換えれば、社会という人間関係の枠組みそのものが、個人として生き残るために必要な知識を得るという目的のもとにあるわけです。私たちは人間である前に、動物であるといった前提のもとに生きています。

この現実を考える時、家族は、つねに利害関係の基礎単位であったわけです。この家族制度を核として、地域社会、国家が存在するようになります。世の中の国家間の対立の一番基底にあるものはこの家族ではなかったでしょうか?

一方で家族というものはその中で子供を育てるのになくてはならない役割を担ってきました。特に子供の情操を育てるには母親的な信頼関係を結ぶ絆がそこにしっかりと根付いていなくてはなりません。

家族とは、そのなかで守られながら、自分自身の自発性を尊重し、自己表現力を培うものであるのが第一と考えています。

残念ながら、個人を守るべき家族の役割が、近年特に果たされなくなってきていると思うのは私だけではないでしょう。

その家族としてその一員である子供を育み、そして守り続けるという機能を失いつつある今、もっと違うコミュニティ形態が模索されてもいいのではないでしょうか?

それは家族という血縁集団を超えて慈愛に満ちた人間関係の核となるような集団形成の可能性がそこにはあるのではないかと思うのです。

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2010年2月13日 (土)

値打ち

人はなぜ、それぞれに幸せを求めながら、それが叶わない人が多いのだろう。

それはしあわせの求め方が間違っているからではないのだろうか?

願い事が叶うことが、即、しあわせに結びつくのではない。貧乏な人々は、豊かな暮らしをすることが、しあわせにつながるのだと思うだろう。

しかし、豊かになったからといって満足はしても、心の虚しさまでも解消されるわけではないと、その時に気づくのである。

人は、側に誰か自分のことを理解してくれるひとがいないと、本当に心まで満たされることはないのではないか?

さらにその理解してくれる人がいなかったら、私はしあわせではいられなくなる。

そこでの自分は相手に依存している。

その依存関係がある限り、人は本当にしあわせであるとはいえないのではないか。

かく言うしあわせとは、私たちのいうしあわせとは異なっている。

それは、いついかなる時でも、ひとは幸せでいられる状態のことをいう。

それを和尚は「至福」と呼んだ。

ひとはひとときも惨めでいたくない、こころ虚しく孤独でいたくない、そういう想いからいつも誰かとつながっていたいのだ。そういう、誰かの存在なしに、ひとは「至福」の状態にいられるのだろうか?

その鍵を和尚は禅に求めた。その本の中で和尚が語った言葉をたずねてみよう。

「最初に覚えておくべきことは、あなたに何が起こるかを存在が気にかけているということだ。存在は、人が究極に達するよう、絶えず祈っている。人は実に、全体なるものの助けを借り、究極に向かって伸びる手、そのものに他ならない。全体から生まれ、月に届かんとする波のひとつに他ならない。全体を自分の芳香で満たすべく開きつつある花に他ならない。」

「そして花々が降りそそぐ(和尚)市民出版社刊」

「存在」を「神」とも「自然」とも言い換えてもいい。それは自分たち生き物を生かし続ける何かである。その何かの導きなしに私たちは決して一秒足りとも生きていくことはできない。

あなたに何が起こるかを存在が気にかけている

このことは、生き物はすべて生かされているが、ただ、無駄に生かされているわけではないということ、それは誰もがしあわせになる権利があり、そのしあわせを手にしたときから、人は究極的に全体へ、自然に還っていく存在なのではないかということ。海から生じた波の一滴がまた、海に帰ろうとするようなものだという。しかし、ただ帰って行くだけではない。

全体を自分の芳香で満たすべく開きつつある花」

誰しもがそうなのか? 時には回り道をすることもある。でも、誰だって、この世界に天から与えられた資質をまっとうし、自分に与えられた芳香を解き放つまでは、生かされ続けるのだろうか?

あなたは存在、自然から何かを与えられている。それは自分の閉ざされた小さな自我の欲求や夢の実現ということだけでなく、自分の住んでいる世界に何かひとつ豊かさを、しかも意味のある何かをもたらすことなのかもしれない。それが私の、あなたの唯一の値打ちだと言っているようでもある。つまりそれは、自分が何かを「する」こと、行なうことによって、その結果によって周りから認められるというのではない。自分がそこにいるだけて、喜ばれるということ。誰かと出逢うことでの言葉で言い表すことのできない喜びといったことなのであろうか?

その人が側にいるだけでしあわせになれる、「あなたがいるから頑張れる」そういってもらうとき、既にあなたは自然から与えられた芳香を振りまいているのだ。あなたの資質は他の誰のものでもない。それなのに、それを誰かが独占しようとするし、あなたも誰かに独占されたいと思う。そうすることで、あなたの心は分裂していってしまったのである。

あなたの値打ちはあなただけのものであり、同時にみんなのものである。それは誰かさんの独占物ではないのである。そのことがわからない限り、人々は多くの紛争や数限りない不幸招いてしまうのではないだろうか。

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2010年2月 5日 (金)

自由(8)

これまでに社会が発達してきた方向は「物質的に豊かになる」ことであった。

物質的に豊かになればなるほど、物に対する執着心が際限なく沸いてくる。しかし、身の周りにいくら物が満たされていても、何かが足りないと思う。それは目に見えない「精神的」なものである。私たちはそれが何なのかよくわからない。そのために、周りの人間に対しては支配しようとする、権力欲、異性を自分のものにしたい、相手は性欲を満たすための道具に過ぎない、動物的本能などで代償を求める。一時的にそれは叶うかもしれないが、こころの奥底の魂は決して満たされることができない。

私たちは、この足りない何かを満たすための方向づけ、努力をしてこなかった。

宗教も、権力者の覇権のもとに組織化されたものになってしまっている。

いまこそ悔い改めるべき時がきた。

和尚はいう。

「悔い改める」という言葉は、実際には引き返すこと、内へ向かうこと、もどることを意味する。つまりそれは帰ること‥‥ 自分の本来の姿を取りもどすということだ。「悔い改める」という言葉はメタノイアー回帰すること、百八十度の転回を意味する。

外に現れた現象だけを見て、それに振り回されてはいけない。

あなたが自分の意識の内側へと向かわなければならない。

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