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2010年1月

2010年1月29日 (金)

自由(7)

神の分身である人間は生まれながらにして自由である。

その自由を阻む二つめの要因。

それは、その時代の社会規範に縛られて、本来生まれながらに持つ個人の本性を発揮できない状況にあるということ。それは決してその時代の社会が悪いというよりも、個人の意識がまだ発達していないのだとしかいいようがない。

どんな社会であろうと、自分の人生に責任を取れる人たちは必ず居るものだ。そういう人たちが、他のひとたちの意識にも影響を及ぼし続けている。彼らは、私たちのこころの中の神に直接問いかけ、目覚めさせようとしてきた。

私たちは、良くも悪しくもその時代の社会に呑まれて生きている。そんな私たちは、他者依存が激しいために、自己の人生の責任も自分で取ることができなくなってしまった。周囲の環境に振り回されていては、自分の人生の責任は他人にとってもらおうということになる。その結果、人は権力者、支配者といわれる人たちの奴隷になってしまった。それは自分の人生の責任を取るのがいやで、みずからの自由と引き換えに、養ってもらう者として奴隷に成り下がってしまったということである。

それぞれの時代の社会が求める人材育成において、社会が望む人間像と、個人の資質が望んでいる人間像は必ずしも一致しない。社会はいつの時代でも、役に立つ人間像を理想に掲げ、それに従う人間教育を施すものである。しかし、それでは方手落ちであり、役に立たない人材のなかに、芸術的、宗教的な開花の可能性はいくらでもある。また、個人が自身の道を歩もうとすると社会はいつもそれを望まない。なぜなら、社会は常に効率良い機械的組織を作ることに奔走してきたからである。それは現代西洋文明の抱える問題点そのものでもある。効率だけで捉えられない芸術的な評価や、個人がもっと全人格的に評価されるような社会の出現が望まれる。

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2010年1月22日 (金)

自由(6)

仮説3

神の分身である人間は生まれながらにして自由である。

しかし、その自由を阻む幾つかの要因がある。

1つは、個人として過去生の叶えられなかった願望があるということ。

私たちは、生まれ変わりを信じて、あたかも個人が前世でやり残したことがあるような事を言っている。部分的にそれは正しい。なぜなら、それは過去のやろうとしてやり遂げられなかったこと。目標をたてて、叶えようとして叶わなかった夢のやり直しを次の人生でやり直そうとするのは自然なことだからである。

一方でこの考えは、それでは、人生は何度でもあり、その欲求の続く限り人生を続けられるということになる。

多くの人たちは、この輪廻する世界にいつまでも浸っていたいと思うのかもしれない。しかし、それでも私たちは一度でも、不幸な出来事な出くわした時、こんなつらい人生ならもう終わりにしたいと思ったことはないのだろうか?

しかし、個人に潜在的に潜んでいる欲求とは根深いものがある。それは叶えられなかったからこそ執着の炎となって燃え盛るのである。

あなた自身の欲求が何であるかを知り、この世界で満たせるものであれば最後まで見届け、中途半端にやらないこと。或いはそれを満たすことばかりにかまけるのではなく、無意識の欲求に気づくことによってその欲求から自由になること。

あなたではないもの、それは生物学的な欲求であったり、誰か他の人の霊の影響や支配であったり、自分の心のコントロールできない暗闇に潜む欲求であったりする。

あなたは、本来は光で満たされた存在の一部であり、そのことが見えなくなったために、多くの誘惑があなたを自分自身から遠ざけてしまうのだ。

同じ事を何度も繰り返してしまっている、この馬鹿らしさに私たちは一体いつになったら気づくのだろうか? 

残念ながら、私たちは同じ過ちを繰り返して来ている。それはすんなりと自我の欲求というものを昇華できないからに他ならない。さらに自分の中には背反する欲求が渦巻き、対立している。

あなたは、あなた自身が相反する欲求の波に呑まれてしまっている状況で、そこから動けないで居るのではないだろうか?

それは決して自由であるとは言いがたい。

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2010年1月15日 (金)

自由(5)

仮説2

ひとは誰でもその人自身の輝きがあり、それは時を越えて存在しているそのひとの本性である。それはこの世では顕現していない。その可能性を現実のものとするために、生かされている。

ひとはそれぞれの視点があり、それぞれの立場での視点があってこそ、神という全体を支えるネットワークが明らかにされるのである。

弱肉強食の社会は動物となんら変わることがない。動物は無意識のうちに自然の中に生き、創造と破壊を繰り返す自然の仕組みに沿って生きることを本性としているのである。

しかし、人間はそうではない。人間は神と動物の中間にあって、半分無意識、半分意識のある存在である。しかし、まだ、存在に至ってはいない。

存在とは何か? それは自己が分裂していない、トータルな意識を持つに至った者のことだ。その意味で、人間の意識は分裂しており、それを反映して社会が作られる。そうして作られた社会は決して住み良い社会のはずがない。私が言っているのは、誰かが満足すれば、誰かが我慢しなければならない、そういう社会のことである。

神は全体である。不二なる一である。けれど一であることをどうして認識できるのか、一旦無数に分かれて再認識することで初めて、改めて一であることを理解する必要があるのではないだろうか?

この世界は一なる全体が多くの神々に分かれ、それぞれの視点をこの世界に持ち込むために顕された四次元の時空世界である。だから、多くの神々はこの世界で肉体を宿してこの世界を意識的に展開する。人間は生を享けるとき、その神々の個々の意識が、それぞれの視点を持たせて既に織り込んできている。それが誕生を受けた私たちひとり一人の個性というものである。

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2010年1月 9日 (土)

自由(4)

生活能力がない人は、自分のことを責めたりしがちである。だからといって、その人に生きる価値がないというのではない。そのひとも、誰かのために支えとなって生きられるのであり、私たちはみんな支えあって生かされているのである。その現実に気づくことが唯一生まれてきたことの意味であるように思えるのである。

私たちは何かを成し遂げることで価値があり、偉くなれるのではない。そこに居るということ、その生まれてきた存在としての自分や「あなた」そのものに価値があるのであるということを、もっと理解していかなければならないのだ。

何もしなくても値打ちがある? 

このことはわかりにくいが、人はそれぞれが独立して存在しているのではない。お互いに影響しあって生を営んでいる。さらに言えば目にみえないことも関係して世界は動いているのだ。この個人と組織との有機的、またはそれ以上の関係に目を向けないと、個人のみを取り出してみると、過大評価したり過小評価になったりする。

私たちは、ひとり一人が貴重で大切な存在、尊い、かけがえのない存在であるのにも関わらず、目立つ誰かのみを、有名な誰かを英雄に仕立て上げたがる傾向にある。それもあなたの中の支配と権力の欲求の外に現れたものに過ぎない。あなたの中に権力志向、支配指向があってそれが自分のひいきにしている人を神聖化し、彼の人生と自分とを重ね合わせてしまうのだ。もうそんなことはやめて、あなたは自分自身の道を生きたらどうだろう。

誰が他人のしあわせで、たとえそれが我が子供であろうと、彼の人生をもってあなたは満足したがるのだろう。あなたは自分の足で歩き、自分の目で物を見、自分の考えで持って人生を謳歌しなければ生きているとは決して言えないのではないだろうか?

もう他人の人生に自分の分までおんぶさせるのはやめよう。そうしら。周りの人たちひとり一人がとても大切で、かけがえのないものに思えてくるはずである。

ひとは生きる上で誰も平等に尊いのだ。そうでないと思うあなたは、単に権力欲、支配欲に翻弄されているだけなのだ。それこそ不自由の身ではないか。

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2010年1月 3日 (日)

自由(3)

今年も和尚ブログ、よろしくお願い致します。

2010年、さらに意識の目覚めの輪が拡がりますように‥

自由(3)

社会の仕組みは、弱肉強食であり、人間も動物の性を基盤にしている限りその例に漏れない。それを知った上で、国家とは何か、社会とは何かがひとり一人の内面に問われなければならないのではないだろうか?

こっちの政党が駄目だったから、今度はあっちの政党にする、といった安易な私たちの傾向をもっと理解する必要がある。

私たちは、私たちのために何かをしてくれる政治家や、親など誰かに頼ろうとする。なぜ頼ろうとするのか、自分の何を満足させたくて人を頼るのだろうか?

あなたの願望を利用するのが政治家の役割だといっていい。しかし、政治家は決してあなたの望みを満たしてくれるわけではない。

裕福な生活がしたいのだろうか、精神的に満たされたいのだろうか。

相手に頼るのは自分が奴隷になりたいということであり、自分は無力であるということを証明することだ。ならば自分は本当に無力なのだろうか? なぜあなたはそこまで奴隷でいたいのだろうか?

実のところ誰も自分の行動の結果に責任をとりたくないのだ。あなたが自分の行動のひとつひとつに責任を取れるようになれば、それだけ自由度が拡がる。私たちは、個人としての自由と引き換えに束縛される道を選んできた。なぜなら、その方が楽だからだ。楽して人生を楽しみたい、そんな甘えが私たちの根底に潜んではいないだろうか?

私たちは人に何かをしてもらいたくてその代わりに自分の自由を与えてしまった。この代償は大きい。色々な意味合いで身体の自由、心の自由、そして魂の自由さえ奪われてしまった私たちは、外部から押し付けられるがままの人生にみずから甘んじてしまってきたのである。これは意識レベルの低い状態では問題とはならなかった。

自由を意識しだした人たちは、この世界の不完全さに気づくようになる。なぜなら、意識の発達しつつある個人にとって、この世界は苦痛以外の何物でもないからである。その苦痛は自由への渇望の度合いに応じて増していく‥。人生はより自由を求める者にとっては決して楽しくない。いや、この世界が楽しくないのかも‥。

ひとたび苦しみから自由になれば、人は真に自由になるのだ‥(和尚)

和尚によれば生とは祝祭だ。そこには遊び心も必要である。自分の生を楽しむためには少なくとも何ものにも縛られないこころ、すなわち「自由」を感じることが前提である。

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