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2010年1月29日 (金)

自由(7)

神の分身である人間は生まれながらにして自由である。

その自由を阻む二つめの要因。

それは、その時代の社会規範に縛られて、本来生まれながらに持つ個人の本性を発揮できない状況にあるということ。それは決してその時代の社会が悪いというよりも、個人の意識がまだ発達していないのだとしかいいようがない。

どんな社会であろうと、自分の人生に責任を取れる人たちは必ず居るものだ。そういう人たちが、他のひとたちの意識にも影響を及ぼし続けている。彼らは、私たちのこころの中の神に直接問いかけ、目覚めさせようとしてきた。

私たちは、良くも悪しくもその時代の社会に呑まれて生きている。そんな私たちは、他者依存が激しいために、自己の人生の責任も自分で取ることができなくなってしまった。周囲の環境に振り回されていては、自分の人生の責任は他人にとってもらおうということになる。その結果、人は権力者、支配者といわれる人たちの奴隷になってしまった。それは自分の人生の責任を取るのがいやで、みずからの自由と引き換えに、養ってもらう者として奴隷に成り下がってしまったということである。

それぞれの時代の社会が求める人材育成において、社会が望む人間像と、個人の資質が望んでいる人間像は必ずしも一致しない。社会はいつの時代でも、役に立つ人間像を理想に掲げ、それに従う人間教育を施すものである。しかし、それでは方手落ちであり、役に立たない人材のなかに、芸術的、宗教的な開花の可能性はいくらでもある。また、個人が自身の道を歩もうとすると社会はいつもそれを望まない。なぜなら、社会は常に効率良い機械的組織を作ることに奔走してきたからである。それは現代西洋文明の抱える問題点そのものでもある。効率だけで捉えられない芸術的な評価や、個人がもっと全人格的に評価されるような社会の出現が望まれる。

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