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2010年1月15日 (金)

自由(5)

仮説2

ひとは誰でもその人自身の輝きがあり、それは時を越えて存在しているそのひとの本性である。それはこの世では顕現していない。その可能性を現実のものとするために、生かされている。

ひとはそれぞれの視点があり、それぞれの立場での視点があってこそ、神という全体を支えるネットワークが明らかにされるのである。

弱肉強食の社会は動物となんら変わることがない。動物は無意識のうちに自然の中に生き、創造と破壊を繰り返す自然の仕組みに沿って生きることを本性としているのである。

しかし、人間はそうではない。人間は神と動物の中間にあって、半分無意識、半分意識のある存在である。しかし、まだ、存在に至ってはいない。

存在とは何か? それは自己が分裂していない、トータルな意識を持つに至った者のことだ。その意味で、人間の意識は分裂しており、それを反映して社会が作られる。そうして作られた社会は決して住み良い社会のはずがない。私が言っているのは、誰かが満足すれば、誰かが我慢しなければならない、そういう社会のことである。

神は全体である。不二なる一である。けれど一であることをどうして認識できるのか、一旦無数に分かれて再認識することで初めて、改めて一であることを理解する必要があるのではないだろうか?

この世界は一なる全体が多くの神々に分かれ、それぞれの視点をこの世界に持ち込むために顕された四次元の時空世界である。だから、多くの神々はこの世界で肉体を宿してこの世界を意識的に展開する。人間は生を享けるとき、その神々の個々の意識が、それぞれの視点を持たせて既に織り込んできている。それが誕生を受けた私たちひとり一人の個性というものである。

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コメント

コメントありがとう御座います。
私は未だ、禅とは何か?と言う入り口に立っている身分だと思っています。自らを省み、自らを無(仏心)と悟るには未だ未だです。しかし、入り口に立った今、多くの人が禅の良さ、心の曇りを取り除く努力を惜しまずに、人として成長すれば、社会全体に大きな流れが生まれるのではないかと思っております。

これは他人に期待するわけではなく、皆、既にわかっていることだがなかなか実行に移せないのだと思います。その後押しが出来れば私としては幸いです。

説法は自分に対して行うもの。他人に対して説教するのとは異なります。あくまでも己の心と向かい合い、己の歪んだ視点を如何にして取り除けるか。禅とはそういうものだと思います。

末筆ですが、乱文につきご容赦願います。

以上

投稿: acchangum | 2010年1月16日 (土) 21時27分

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