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2009年12月

2009年12月27日 (日)

自由(2)

私たちは、時間軸のあるこの世界にあまりにもなじんでしまっており、そのために個人の成長とか、目標とか、成るべき自分なばかり焦点を当てすぎているのではないだろうか。

私たちの本性が神の分身であるならば、本来が清浄なはずである。それがその時々の時代の社会に養育された結果、型にはまった意識を持ち、型に捕われた社会規範を持って社会生活を営んできている。その意識の基礎には、その時々の集団的意識がある。その時代に特異な意識に縛られているために、個人が生まれつき持っている神から与えられた本性を発揮し、生き抜くことができないでいる。それはつまり、個人が真に生かされないという幼稚な社会の歴史をたどれば明らかである。そしてこのことはこれまでに多くの人たちの気づきの可能性を拒み続けてきた。

私たちがいままで社会から教育されてきたことは、いかにその社会に沿った無難な生き方ができるかであり、その社会になじまない者は生きてはいけないというもくろみのもとになされてきたことである。狡猾でずるがしこい考え方も、社会規範のなかに組み入れられてしまえば正当化されてしまう。

国会議員の決める法律が必ずしも的を得ていることは少なく、その殆どは、自分たちの都合の良い様に作られてきている。

一例を挙げれば、税金の複雑さに疑問を持ったことはないだろうか?

個人が本を買ってそれこそ勉強しなければ、還付申告もできないような税金の取られ方に疑問を持ったことはないだろうか?

公務員たる国会議員がなぜ私たちの弱者の生活水準を上回っており、議員活動という名目のもとに必要以上に色々な恩恵を受けたりなぜできるのだろう?

それは百姓と代官とい搾取するものとされるものという、つい最近の構図となんら変わることがないではないのではないか。

「政権交代だ」といいながら私たち選挙民のすることといえば、自分の思うような政治がなされないと、別の議員にすぐに目を向いてしまう。単に非難することを考えるばかりで、私たちは、自分に何かをして欲しければすぐ他の誰かや政治に頼ってしまう、何よりもそういった私たち自身の態度に問題があるのだと考える人は少ない。

私たちはこの誰かに絶えず依存していたい心がどこかにある限り、いつも誰かの奴隷であり、決して自分自身の主人となることはできない。

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2009年12月19日 (土)

自由(1)

仮説1

神は自由な存在である。我々は、それぞれが神の一員であり、それから離れたことは一度もない。

それなのに、この生まれ変わりの世界に関わったことで、不自由をもたらされた。

この生きるのに不自由な世界は何ゆえに存在するのだろう?

神は、自分自身を認識していないのではないだろうか?

神は自分を知るという過程において、さまざまな多様性を生み出してきたのがこの世界であるように思われるのである。その多様性の種族のひとつが私たち人間であり、そのなかでも私たち人間は、それぞれが自我という限られた意識を持った個人として生まれることになった。

したがって、私たちは誰一人として神から離れてはいない。それはこの世界に生きる他の動物植物、鉱物でさえも同じ事である。ただ、意識の度合いが違うだけである。

したがって私たちは天から生を享かった地点で、過不足はなかったはずである。それぞれが神の分身なのであるから。

世界を不完全なものにしているのは意識を持った人間それぞれの想いである。それらは良い想いも悪い想いも相交じり合っている。そのそれぞれの思いが交じり合ってこの世界の現実を形作っているのである。そして、何が良いとか悪いとかも、それぞれの時代の人間の意識状態に委ねられている。だから、この世界は魂の修行の場だともいわれる。

ここで私が思うのは、神の分身として生まれてきたはずの私たち魂がなぜ修行をしなければならないかということである。修行の過程は決して楽なものではなく、むしろ苦痛だらけである。そして、この苦しみの世界から、修行を積んで、また神の世界に還っていかなければならないのだという、この思想は一体どこからくるのだろう。

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2009年12月11日 (金)

自己への道程(8)

あなたは誰なのか?

親からもらった身体のことを言っているのではありません。霊的にずっと存在し続けるあなたの意識とは何なのか?

人は自分自身をよりよく理解する過程において、生きることの真の意味があるように思える。ひとはそれぞれに個性的であり、誰一人として同じ役割を果たすために生まれてきたわけではない。その自分に与えられた本質、その独自性を表現し得ないで何が人生なのだろう。

自分が生かされずして単に生活者としてしか生き残れなかったら、そこに権力や自我の欲望がたとえ満たされはしても、砂塵のようにはかないものに過ぎないのだろう。それはひとときの夢

和尚は「自分を知らずして生きてゆくなど死んでいるも同然だ。自分が誰であるかを知らずして、生にどんな意味があるというのだろう?  自分をどう扱おうというのだろう?

という。

自分の天命を知り、それを生きることこそすべてである、そのためには自分自身をよく知らないといけない。

自分自身を生き抜くことが天命だとしたら、そのときひとは自らの内なる光を放つに違いない。和尚は自らを知ったものを「みずからの内なる実存の美と祝」だと述べている。

自己への道程は果てしない、その実存の美と祝福はどんなものか私たちは思いもよることができない。しかし、これだけは言える。

自分自身を知る道のりは、他人の人生を参考にしては決して得られないものである。

それは「好奇心ではなく、誠実な探究心自分を知ることへのあくなき情熱」があってこそ達成されるのだろうということ。

私は私自身の体験から何かを学び取り、あなたはあなた自身の体験から学び取る、その道程は、誰と一緒に歩くことがあろうといつもひとり孤独な道程であるということを忘れないでおきたい。

この今を共に生きてるみなさんに、大いなる祝福を祈ろう。

太字:「黄金の華の秘密,和尚,めるくまーる社」より引用

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2009年12月 4日 (金)

自己への道程(7)

輪廻の思想は、自分自身の変わらないものの発見のためのひとつの解釈であり、契機に過ぎません。輪廻する世界とは、自分で自らの幻想で作り上げた分身たちを成長させるための場所なのではないかとも最近考えます。

ここで、もし自分で作り上げてきた数々の自己像に縛られて、意識がいくつもの次元のはざまでとぎれとぎれになってしまい、断片化されているとしたら、それらを全て統合させなければなりません。

和尚が人は個人ではなく、単なる群衆であるといったのは、おそらく過去を背負った自分のなかで数多くの人格が無意識のなかにため込まれているからなのだと思います。

人間は自我意識のみで生きているわけですが、その潜在下には生きてきた過去の多くの人生をも背負い込んでいるのではないでしょうか?

そういった数多くの無意識な人格は、生活のなかで絶えず何らかの影響を及ぼしているのだと思います。そうした意味で、人の現在の意識は決して個人のなかで統一されているわけではなく、無数の無意識の海の上に漂っているというのが本当のような気がしています。

輪廻の思想ですが、本当のところは自分が勝手に作り上げた世界に自分自身が囚われてしまったというのが正しいのかもしれません。輪廻するという考え方そのものに、「今、この瞬間」を真に生きられない私たちの不自由さと、偽りの自分があるように思えて仕方がありません。

必要なのは、それぞれの今を生きられない自分がいるということ、

そして過去を携えて生きてきたこれまでの自分に対して、

そのからくりにひとつひとつ気づくこと、そして自分自身と向き合い、少しずつ過去のしがらみを解消していくことなのかもしれません。

そうすることで、人はいつしか本当の自分を見つけられるのかもしれません。

人生を真に楽しむために、自分自身を離れてみることも時には必要です。そして、自分を離れて見る自分というものを少しずつ意識していきませんか?

そして、そうすることで私たちがひとり一人たどりつくべき源泉に、いつしかたどりつけるような気がしている今日この頃です。

西洋には、自らの生の源泉に深くなじむことが必要だ。そうなったら、急ぐことはなくなる。生が若さをもたらすときにも人は楽しみ、生が死をもたらすときにも人は楽しむ、人はただひとつのことを知るー 出会うすべてのことをいかに楽しむか、それをいかに祝祭に変容させるかを(和尚)

太字:ニューウーマン誕生(和尚エンタープライズジャパン)

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