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2009年12月19日 (土)

自由(1)

仮説1

神は自由な存在である。我々は、それぞれが神の一員であり、それから離れたことは一度もない。

それなのに、この生まれ変わりの世界に関わったことで、不自由をもたらされた。

この生きるのに不自由な世界は何ゆえに存在するのだろう?

神は、自分自身を認識していないのではないだろうか?

神は自分を知るという過程において、さまざまな多様性を生み出してきたのがこの世界であるように思われるのである。その多様性の種族のひとつが私たち人間であり、そのなかでも私たち人間は、それぞれが自我という限られた意識を持った個人として生まれることになった。

したがって、私たちは誰一人として神から離れてはいない。それはこの世界に生きる他の動物植物、鉱物でさえも同じ事である。ただ、意識の度合いが違うだけである。

したがって私たちは天から生を享かった地点で、過不足はなかったはずである。それぞれが神の分身なのであるから。

世界を不完全なものにしているのは意識を持った人間それぞれの想いである。それらは良い想いも悪い想いも相交じり合っている。そのそれぞれの思いが交じり合ってこの世界の現実を形作っているのである。そして、何が良いとか悪いとかも、それぞれの時代の人間の意識状態に委ねられている。だから、この世界は魂の修行の場だともいわれる。

ここで私が思うのは、神の分身として生まれてきたはずの私たち魂がなぜ修行をしなければならないかということである。修行の過程は決して楽なものではなく、むしろ苦痛だらけである。そして、この苦しみの世界から、修行を積んで、また神の世界に還っていかなければならないのだという、この思想は一体どこからくるのだろう。

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