« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月

2009年11月27日 (金)

自己への道程(6)

自己への道程(6

人は誰のために生まれてくるのでしょうか?

人は何のために生まれてくるのでしょうか?

人は何をするために生まれてくるのでしょうか?

そのことを立ち止まって考える時間をつくってもいいのではないでしょうか?

そうでないと、自分の生きてきた人生が、虚しいものになってしまいませんか。

生まれ変わりの人生を考えるとき、いつ立ち止まっても遅いということはありません。

時には、病気で、時には、周りの人たちの不幸で、自分の執着するものがいつまでもそこにはいない、ずっとしあわせが続かないことを知ります。それは、この世界は絶えず変わって行く世界だからです。

そういった自分が大事にしてきたものが、実はいつまでも続かないものであることに気づくとき、人は真に宗教的になるといいます。それに気づかないでいられる人は、今の幸せを存分に味わい楽しめばいい。そうでない人は、今から自分自身の内面へと向かって自分自身を取り戻す旅が始まるのです。

絶えず移り変わって行く世界で、あなたは何を求めても、決して満足するものは得られません。そのことに気づいたとき、人は変わらないものこそ、真に価値があることに気づかされると思います。自分を発見する旅とは、自分の中にあるこの変わらないものへの情熱や、渇きに支えられています。

それまでに作り上げてきた親子関係、職場関係、自分の付き合ってきた人々との関係が、そう長くは続かないものであるということ、自分の死を考えたとき、この自分自身でさえも、死という現実の前では無力であるのだということ。そう考えたら今の自分は一人孤独に取り残されたら、自分を証明するものは何もなくなってしまうことに気がつきます。

時間とともに消え去ってゆく自分が真実の自分ではないことがわかってきます。そこから、その虚しさを覚えたときからようやく、人は自分自身と向き合いはじめるのではないでしょうか?

真実への探求とは、自分捜しの探求に他なりません。身体は滅んでも決して死ぬことのない自分、この自分捜しに始り、そして、自分のなかの変わらないものに対する渇き、それこそが、ひとを真実へと押し上げていく力になるのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月21日 (土)

自己への道程(5)

ひとは人間から、誰でも神のような存在になれる、それは大いなる慈悲を持つということ、それがつまり、自分の花を咲かせ、芳香を漂わせるということです。

誰でもひとは、種のままではいたくありません。なぜなら、種は、周りから栄養を吸収して、自分の花を咲かせることこそが目的だからです。

そして、自分の花を咲かせ、周りじゅうにその芳香を解き放つことの喜びほど大きなものはありません。そしてそれは、何も何度も生まれ変わってこなければならないということではありません。時には十分に花を咲かせることはできないかも知れません。それでも、花を咲かせようとするその意志は自然なものです。

この自然な傾向に私たちも立ち戻っていかなければならないのだと思うのです。

世の中誰でも住み易い世界にしたいと思います。そして、生まれてくるみんながそう思い、より住み易い世界にするために、人は生まれて来るのではないでしょ

それは今の自分の気持ちを正直に現わすということ、自分の感情を素直に伝えるということ。これができれば、それがなによりも自分自身であるための近道なのだと思います。

未来に何の希望も託さないこと、過去になんの悔いも残さないことが大切だと思うのです。

残念ながら、それをできる人はそんなに多くはありません。自身が教え込まれてきた社会生活のしがらみから自分を縛ってきた結果、自分の本来の在りようがわからなくなってきているのではないでしょうか。

世の中に自分の居場所が見つけにくくなっている状況のなか、必要なのは自分自身の内面にもっと目を向けようということです。

他人にとって自分はどう見えるか、そんなことばかり気にしていたのでは、自分自身の花にたどりつくことは決してできないと思いませんか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月13日 (金)

自己への道程(4)

人が生まれ変わって何度も人生を経験するということは、この世界から何かを学びとり、それによって自分自身を深く見つめることが目的であるということです。では、周りの環境によって自分自身を深く見つめることとはどういうことなのでしょうか?

自分が生まれてきたルーツを知るということ、それはつまり、自分が発生してきた生の源泉を知るということです。

私たちは、皆、それを意識しようとしまいと、私たち自身の源泉に帰る長い道のりの途上にいます。つまり、ひとはそこから生まれ、そこへと還ってゆく旅人なのだと思います。

自分を知るという過程は、何が自分の社会的な適性なのか、生まれつきどういう個性を持っているのかに始まって、自分自身を生じた源泉を見据えることも全て含まれているのです。

言い換えれば、全体の中での個人の意味合いを理解することによって、個人が真に自分を表現することができるということ。その喜びを得るのだということ。そして、そこでイエスキリストのいう、一粒の種が実を結んで花を開かせ、その花独自の芳香を放つということです。

和尚はこの花の芳香のことを、慈悲と呼び、ただ、だれ彼と、隔てることのない分かち合う愛、至上の愛とも呼んでいます。(と私は理解しています)

つまり誰でもが自分自身を表現する喜びを知るのなら、慈悲心は自ずからついてくるというのです。ただ、人間はそれを可能性として含んでいるのに過ぎない。それは世界の中で実現される日を待ち望まれているということです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 7日 (土)

自己への道程(3)

身に起きるあらゆる機会は、自分自身の気づきの糧です。しかし、その機会も人生を急がず、周囲の環境を見渡せる視点をいかに持てるようになるかに関わってきます。

人間が輪廻するということ、それが真実であると受け入れる人たちにとって、その視点を強化することにつながります。

何かをすることで、絶えず忙しく走り回っている現代ですが、だからこそ、ひとり一人との関わり合いの意味を立ち止まって見つめることも必要だと思うのです。

そして、そのことは、自分自身の生を豊かにするものと思います。なぜなら、生きることの意味は、自分自身を見つめ、発見していくことでもあるからです。そのことを忘れて、一回きりの生をただ、享楽を追い求めるだけに終わるあわただしいものになってしまう虚しさを味わってしまうことはとても寂しいと思います。

自分はどこから来たのか、

いま自分はどこにいて、

そしてこれからどこへ行こうとしているのか?

それを考えることは、狭いこの一回きりの自我に閉じ込められた自分からは思い及ぶこともないでしょう。けれどそれを考えずして、自分のあるべき方向性は決して見えてこないし、自分の幸せは常に他人に寄りかかって、自分の関わるひと次第ということになります。

短い視点でみれば、そういう人生でいいのかもしれませんが、残念なことに、人は自分の描くような普通の幸せの手の中で人生を歩ませてはくれないことがたくさんあります。

自分自身の足で立つ、つまり、自分の生き生きした姿を他人に寄らず自分自身の中に求めなければ人はいつまでたってもそのときの運命に翻弄されて生きることになります。

それではいやだというひと、続きを聞いてください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »