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2009年8月

2009年8月27日 (木)

知性(4)

‥誰もがひとつのおおいなる約束として誕生する

だがその約束を果たすのは、ごくわずかな人々だけだ

‥自らの生に潜む約束を実現させなくてはならない

なるべきものになることだ

授けられた天意をまっとうすることだ

(「夜眠る前に贈る言葉」OSHO市民出版社より

知性的であるということは、自分の中に潜むこの約束を予感し

自分がなるべき自分へと、日々、まい進していくことなのだろうと思う。

授けられた天意とは、自分に与えられた資質を開花することであり、そのために知性的にならねばならないのだということ。

言い換えれば、生かされてあるこの自分が、出会った人たちや

関わりあう人たちに対して、今自分にできる、できる限りのことをするということなのかもしれない。

私たちは、日々の生活に追われて、自分にできるその少しでもできないで

後から後悔してしまうことが多い。

それは、生きていく上で、何が一番大切なのかということを

私たち自身、よく理解していないからなのかもしれない。

自らの生に潜む約束、あなたの場合、それは何なのだろうか?

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2009年8月22日 (土)

知性(3)

知性とは自分に与えられ、可能性として備わっている資質のことではないだろうか。

どんな職業に就いても、それを楽しめないとか、単なる生活のためにとかいうのならそれも仕方のないことである。しかし、ならばそれ以外に自分の知性を発揮できる場を見つけられなくては社会にとって実に大きな損失ではないだろうか? その場で生かされた自分は職場においてもなんらかの良い影響を与えるものである。

自分で自分の知性を見つけようとも思わなくなったら、生きるのがつらくなる。

なぜなら、人は自分の知性をもって社会に唯一その存在意義を示せるものであるのだから。

そうでなかったら、人はただ他人から与えられた仕事をいやいや仕方なくこなしていくだけの苦痛に満ちた日々を送ることになる。生活第一ではあるが、それだけで人はしあわせにはなれない。

楽して豊かな生活をしたいと望むひとは、自分自身の知性を見つけるのを放棄した人に他ならない。楽することで、一体何か楽しく、わくわくするような出来事でも降ってくるのだろうか?豊かな暮らしが必ずしもしあわせではあり得ない。人間は生き生きしていることが、本来の姿なのだと思う。

存在の神は、自分の知性の何たるかを知り、それを世界に生かし、還元していけるひとを大いに幸福にする。それは自ずからしたくなるような行為となって、周りの人たちをも変えていく力となるかもしれない。しかし、本人はそんなことは気にも掛けない。

要するにあなたは、自分の知性によって生き生きとした日々を送れるかということだ。それは他人に聞いても決して答えは得られない。だから自分で探すしかないのだ。

しかし、一度自分の知性をみつけたら、あなたは生き生きする。それが何よりの報酬であり、それが自分の本質を生きるということなのだと思う。

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2009年8月18日 (火)

知性(2)

必要なのは、自分で自分の才能がどこにあるのか見い出すことであり、これからの教育にとっては大切な課題でもある。それは教育次第ということがいえる。しかし、残念ながら、そうした自己教育の啓発は近年ようやく始まったばかりである。

現代の教育は、社会、とりわけ企業にとって即戦力のある人材が望まれているが、そういう人材は簡単に育つものではない。現代社会が求める人材とは、物をうまく作り、会話能力を持ち、自己表現力があるということ。

企業にとって人はなんでもこなせる人材を求めている。しかし、そのような人は少ないし、教育次第ではある程度育成も可能かもしれない。しかし、やはり数年そこそこで、その人の能力を最大に伸ばし社会に還元できるとなると、やはりその人の天賦の資質である知性がどこにあるのかを見いだしていくほうが早いのではないだろうか。結局、現代人は物に貪欲になったから品質の良い品物や、できそうもないと考えられていた物は手に入れることができたのであるが、それと人の能力までを混同してしまった。そのためにできない期待をかけられどれだけの人間がストレスなどによる精神疾患で社会から脱落していっただろうか。役に立つ人材を求めすぎる現代の風潮に疑問を抱かざるをえないのです。

 自分の赴く方向が結果として、他の人と似たような知性の持ち主であったとしても、それはそれでいい。

要は人の真似をして、自分を見失わないことだ。

何が、どの方向に自分が向いているのかやってみないとわからない。しかし、向いているということは①継続して続けられるものであるということ。②楽しんでやれるということ。③それをやるのに少なくとも努力しているとか、苦痛であるとかあまり思わないこと、であると思う。

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2009年8月14日 (金)

知性(1)

人はみな知性をそなえて生まれてくるのであって、ただひとりの例外もない。

あなたは自分自身の知性を

それがどこにあるかを見つけ出すだけでいい。

ひとたび自分自身の知性を見いだしたら、あなたは明晰になる。

「黄金の花の秘密:和尚」めるくまーる社刊

大学で教えるようなことだけが知性なのではない。

陶器職人が納得の行く焼き物を創るのにある種の知性が必要だ。

彫刻家がそのなかから仏像を掘り出すのに単なる技術だけでは魂の抜け殻に過ぎなくなるように、そこには別の知性によって彼自身の仏像を作り上げる。

人によって自分の知性の発揮する職業や、場面はまちまちである。

語学が得意な人にモノ作りを強要しても、その人は能なしだとさげすまれるだろう。無口で人付き合いの悪い人が、有能な職人だったりする。

「人はみな知性をそなえて生まれてくる」‥のであって、その知性は残念ながら百人のうちどれだけの人が発揮されているのかは疑わしい。

そもそも、近代教育は、個人のそれぞれの知性を伸ばすような工夫をして来なかった。

学習能力をテストで計るというやり方では、その人の才能は埋もれてしまう。

誰にでもわかる記憶力とか、計算力とか、暗記力とかでその人の才能は決して計れない。

政治家になるにはある種の人をたくみに騙すパフォーマンスとずるがしこさ、口上手さ、世渡り力などが必要となってくるが、それもその人の才能であると言えなくもない。

あなたはどんな才能を持っているのだろうか?

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2009年8月 8日 (土)

富の不公平

日本だけの話ではないが、国家は権力を握っている人と、富をたくさん得ている人たちの少数派で政治活動の殆どを支配している。

資本主義社会なのだから、そんなことは当たり前だろ、と言われそうだが‥

ならば何故、そんな権力者や一部の金持ちの人たちに加担するようなことを国民の多くはしてきているのだろう。

国民の多くは、自分が中流意識をもっている。戦後の復興途上の日本ならそうかもしれないが、今は、金持ちはもっと貪欲に富や名声を求め、貧乏人はさらに必要最小限の医療や教育を受けられなくなっている。そもそも、働きたくても働かせてもらえない人たちにとって生活の手段が奪われてしまっているこの現状に政治家はあまりにも無頓着である。

それというのも、未だに中流意識の強い国民が多いから、この現状をなかなか変えることはできないのかもしれない。

 

政治家たちは、すぎた尊敬を求めるべきじゃない。

かつての王様や皇帝たちは、乞食のところへ自分たちの敬意を表しに行ったのだという。

お金のある人は、お金のない人たちのところへ頭を下げに行くという風習があったというのである。

そもそも、金持ちは一部の乞食の存在によって金持ちなのであって、そこには幾ばくかの乞食に対する布施があって当たり前なのではないだろうか?

今の社会のおかしいところは、お金持ちはさらに富を得て、それを一人占めにしようとし、権力者は、国をうまく統治できなくても、それにずっとしがみついて離れようとしない。自分が置かれている状況をみようとしないのである。

和尚は述べている。

もしひとつの国で、政治家があまりにもエゴイスティックになり、彼らがすぎた尊敬を求めたりすれば、やがて軽蔑が忍び込んで来るだろう。やがてそこには謀叛が起こるだろう。やがてそこには革命が起こるだろう。やがて何もかも破壊されてしまうだろう。あらゆる道徳規範、尊敬、礼儀がぶち壊されてしまうだろう。

私たちの多くは日々の生活に困っていない。その困っていないことが、権力者に媚を売り、金持ちになろうとして躍起になっている。それは自分たちが同じ権力志向の持ち主であることを証明している。

本当に日々の生活に困っている者は、そのときはただ、毎日が満足に食べていければそれで満足です、と思っている。しかし、一旦その生活が叶えられると、今度は車が欲しい、海外旅行に行きたい、新しい家が欲しい、もっと贅沢で便利な暮しがしたい‥ と思い続けて欲望に際限がなくなってしまう。

それがいいとか悪いとかではなく、そうした人間の欲望の傾向をまず理解することである。そして、今の生活で満足していることが一つでもあったらそれに感謝することを忘れてはならない。感謝を忘れては、ひとはエゴイスティクになり、身の程を過ぎてしまうことになる。

国の格差のこの行き過ぎた傾向を止めるのも進めるのもあなた次第だ。自分の中流意識からその行き過ぎた欲望の渦に呑まれてしまったのなら、その先は国家の滅亡か衰退が待っている。

今、ひとりひとりがもっと謙虚にならないといけない。この日本をこの先もずっと繁栄させいのならもっと謙虚になろう。そう思わなければそれでも良し。自然はいつも不自然な状態を決して続けさせてはくれないのだから‥。

太字「TAO老子の道:OSHO」めるくまーる社刊より引用

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2009年8月 4日 (火)

付き合いの距離

 もしあなたがあなたの愛を永遠のものにしたかったら、あまり近づきすぎないこと。なぜならば、もし近づきすぎたりしたら、遠ざかる必要が起こって来るからだ。もし近づきすぎたりしたら、そのときには、あなた方はお互いの自由を侵害し合う。そして、誰しも自分のスペースを必要とするものだ。

 愛は、それがあなたのスペースと共存するときにはビューティフルだ。が、もしそれがあなたのスペースを侵害しはじめたら、そのときそれは有害になる。

 もしあなたがあまりにもはいり込みすぎたら、もしあまりにも近づきすぎたら、あなたは敵対関係をつくってしまうだろう。けっしてあまり近づきすぎないこと。つねに一定の距離を保っておきなさい。

太字:TAO 老子の道」OSHO めるくまーる社刊より

 人付き合いの距離というものがある。それをわきまえずにずかずかと侵入してくる人たちがいる。彼らは、自分中心に世界が回っているかのようだ。別に悪気があるわけではない。

そういう人たちは、何か頼みごとをきいてあげたら、次々と言ってくるから気をつけなければならない。そんなときは、たまには断る勇気をもとう。

 ここで和尚が言っているのはそういうことと少し違うような気がする。

 誰かを愛するということは、その人を束縛することではない。相手には相手のからだとこころの自由がある。そのすべてを認め、受け入れるということである。

もちろん、その自由の基礎として分かち与える愛がある。だが、それを相手に強要してはならない。また、相手のことを愛するからといって、その見返りも求めてはいけない。

そもそも、慈悲深い愛とは、相手のことを束縛しないのだから、それは自由を保証する。

 愛とは自分を失うことではあるが、決して自分を見失うことではない。これをヒントに和尚の述べる上の言葉をもう一度読み直してみよう。

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2009年8月 1日 (土)

総選挙前

 総選挙が近づいてきて、自分の政党を正当化するために競争相手の政党を非難する傾向が強まっている。この非難の傾向をただ醜いとばかり言ってられない。

なぜ、自分の政党の将来についての前向きな姿勢がでてこないのだろうか?

他の政党の悪口を言う心理の裏側には何があるのだろう。

一言でいえばそれは単に自分が所属する政党の方針、もしくは自分の政治家としての生き方に自信がないということである。

 

自分の生き方に胸を張れない政治家に国を任せることなど決してできないし、良い国政など到底望めはしない。

国民のひとり一人がもし、この自信喪失の政治家に一票を入れるとすれば、それはあなたが彼と同じようなタイプの人間だということになる。

少なくとも自分の生きてきた足跡が、あなたの今の言動に反映されている。それは評価されるべきことではなく、自分自身の課題ととらえなければいけない。

もし他人を非難する暇があったら、自分を振り返る時間に切り替えるべきである。あなたが今日生きてきた集大成がここにある。そして、いまここを起点に自分に奥行きと気高さを与えるのは自分でしかない。周りのすることをいちいち気に掛ける暇があったら自分のあるべき姿を思い浮かべるべきであろう。

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