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2009年6月13日 (土)

人は絶えず誰かに恋をしていたいし、そのときめきが私を魂の高みへと誘う。

結婚相手に恋し続けられるのはひとつの才能であるが、それは相手に自分のないものをもっているか、日々、相手に新しい何かを発見できるからなのだろう。

明日も相手の何かがが変わらなければ、次第に飽きてしまうのだろうか?

 私たちはいつも恋に胸ときめかせることで、自分自身の心の未知の領域の何かを導き出すことができる。誰かに恋することで、それまで自分にはなかったある一面を発見することがある。

誰かに恋をすることは、新しい自分自身の扉を開くことなのだと言えないだろうか?

 和尚は自らの本性を知ることは学ぶことによっても教えられることによっても起こることはないのだという。

 それは師との合一によって、すでに到達した者と恋に落ちることによって、彼のなかに自らの本性を見いだすことによって可能になる。あなたはただの種子でしかないが、師は開花に至っている。それがあなたに上昇したいという、自らも花になりたいという熱望を与える。それは学ぶということではないし、教えるということでもない。師への深い愛がすべてを決める。

              「ボーディダルマ和尚:めるくまーる社刊」より

これは自分が本来あるべき姿、花開くひとつの花であり、孤高の個人になることへの渇望を師への恋によってもたらされるというものです。そして、師への愛が深ければ深いほど、その渇きはより自分の本性へと向かわせるというものだ。それは知識によって到達されるものではないという‥。

 

私なりの解釈では、誰かに恋をするということは、相手を通して、自分自身の何かが意識され、結晶化していくのだと思える。それは、相手を通して、自分の心の何かが動かされ、魂の奥深くで揺さぶられるのである。そうすると、現実の相手とは、そのときの自分が抱いていたそのときのある理想のイメージの投影である。その投影像が、相手を良く知るに連れて深い愛情へと切り替わるのであるが、他方で恋は長続きするものではない。

相手に抱いていた恋心とは、自分自身の本性であるものへの予感に相違ないのではないだろうか?

そうして、人は絶えず恋を重ねるごとに、より自分の本性に近づいていくことになる。

人は自分の本性に近づく度に、いきいきすることができる。それは魂の深化していく、種子が芽を出し、枝葉を揃え、つぼみをつけていくように自然で喜びに満ちた過程である。

その自然な流れが滞っている状態が、苦しみを生み出している。

恋は人を生き生きさせる。そうでないものは停滞であり、何かへの執着だったりするのかもしれない。

恋は人をその魂の高みへと導いてくれる。外的なきっかけを通して、自分自身に秘められた本性を引き出してきれるのである。そして、その過程は、人が個人としてひとつにまとまり結晶するまで続くものなのだろう。

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