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2009年6月

2009年6月27日 (土)

過去の遺産(2)

肉体は過去をとどめる。思考は過去をとどめる。重荷を背負ったこの状態ゆえに、人は今ここにあることができない。人は、自分の過去と折り合いをつけねばならないのだ。

‥残っているものすべてを解消せねばならない。そこには何百万もの遺物がある。

肉体は過去をとどめる。過去に受けた傷や快楽、肉体に与えた痕跡は今も刻まれている。思考は過去をとどめる。過去に考えたことだけでなく、生活習慣となった思考形態も今の自分の一部として働いているのだ。

自分の過去とは、単にこの生だけでなく、過去に生きてきた幾つもの自分も含まれているのだとも和尚は云っているのだと思う。そして、これら過去の過ちやこころのしこりが今を生きる自分の人生に大きな影響を及ぼしている。と同時にいま、周囲の環境が自分につきつける課題は、自分がイメージしたり考え続けた思考などが招き寄せた結果であるだともいえよう。

「なんで自分はこんなに苦しまなければいけないのか?

その原因を他人のせいにせず、今の自分に与えられた、乗り越えるべき試練と受け止めよう。

私たちは常に過去の無意識な記憶を携えている。その記憶が今を生きる自分に影響を与えている。いいことも悪いこともみんな、過去の記憶や過去にした行いが反映されているのではないだろうか? それゆえに、私たちは、「いまここ」、無限のなかの一瞬を全面的に生きることはできない不自由な生き物なのだ。

しかし、「いまここ」を全面的に生きることは可能である。そのとき、真に今の瞬間を純粋に生きる者の成長した姿がそこにあるのだと思う。

少なくとも、私たちが過去をひきずった思考や肉体を携えていることの不自由さをまず感じなければ、何も始まらない。不自由さのしるし、それは苦痛や不安である。

‥それが、人生のアートのすべてだ。一瞬ごとに死に、後に何も残らない。

ひとつの関係が終わる。 自分はそれを引きずりはしない。それに死ぬだけだ。‥ それを受け入れ、それに死ぬ。完全な気づきを持ってそれを落とすだけだ。そうすれば、人は新しい瞬間の中に蘇生する。もう過去をたずさえてはいない。

太字:「そして花々が降りそそぐ OSHO(市民出版社刊)」より引用。

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2009年6月21日 (日)

過去の遺産(1)

人は過去をすべてたずさえる。過去の一瞬、それぞれを。これまでに、自分は何と多くのものであったことだろう。子宮の中から今このときまで、自分は何百万の人格であり、それらすべてが自分の中に、何層にも重なってたずさえられている。成長しても、それはそこにある。頭の中だけではなく、それは体の中にさえある。

和尚の云う過去とは生れてから今までに引きずってきた過去の記憶である。たとえば子供の頃に理不尽なことで誰かから叱られて、それに対抗して何も言えなかった自分がいたとしよう。そのことは憎しみとして、あるいは何も反論できなかった自分自身への怒りとして心の片隅に記憶される。そのときの傷は、大人になった今でも、何らかのきっかけを通して繰り返されるというのである。

もしも、その時に言いたいことがきちんと言えたなら、その後には嫌な記憶としてそのことは残らない。

「それは体の中にさえある」というのは、たとえば相手に対して怒ったときにその感情を表現しなかった自分がいたとする。その自分の怒りは体のどこかにしこりとして残る。そのしこりが体の変調を引き起こすのである。

和尚によると感情的なものは相手にぶつけて表現したり、抑圧したりしても解消しない。それはその感情を意識的に理解することで解消するのだという。ここのところは別に詳しく説明する機会を待とう。

相手に怒りを表現すると、今度はその怒りによって相手がしこりを残すことになり、その発散のはけ口をまた、他の誰かをみつけて求めることになってしまう。

感情を抑圧することは、自分のこころや体にしこりを残すことになり、同じような状況を何度でも引き起こし易くなり、その状況は本人がその傷口を解消するまで続いてしまう。

何よりも、感情の抑圧は、その人をその段階で成長をストップさせることで一番良くないことなのである。子供の時に受けた傷は、大人になった今でも時々顔をのぞかせ、そのひとを子供がえりさせたり、幼稚な行動を起こさせる原因になったりする。

最近は、催眠セラピーなどにより、そのひとの心の傷の原因となっている子供の時の場面にまで退行させて、過去の自分を慰め、受け入れて感情をはけ出させるというのがある。

これはその人の今では記憶となってしまった過去の感情に対して、気づかせて、それを開放してやるというものである。

感情を意識的に理解することは大切である。その心の傷の原因となっている感情を冷静に見つめさせる作業によって、その時の怒りや憎しみなどのエネルギーは解放され、自分の中から消えていくのである。

これらは単にひとつの例を示したに過ぎないが、人は否定的な感情を幾重にも蓄積させて、子供のままに取り残された自分を大人になった今でもたずさえているというのである。

これが人の成長を阻むだけならいいが、人の心の病や、体の特定部分の病気の原因とさえなっているから、やっかいなのである。

太字:「そして花々が降りそそぐ OSHO(市民出版社刊)」より引用。

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2009年6月13日 (土)

人は絶えず誰かに恋をしていたいし、そのときめきが私を魂の高みへと誘う。

結婚相手に恋し続けられるのはひとつの才能であるが、それは相手に自分のないものをもっているか、日々、相手に新しい何かを発見できるからなのだろう。

明日も相手の何かがが変わらなければ、次第に飽きてしまうのだろうか?

 私たちはいつも恋に胸ときめかせることで、自分自身の心の未知の領域の何かを導き出すことができる。誰かに恋することで、それまで自分にはなかったある一面を発見することがある。

誰かに恋をすることは、新しい自分自身の扉を開くことなのだと言えないだろうか?

 和尚は自らの本性を知ることは学ぶことによっても教えられることによっても起こることはないのだという。

 それは師との合一によって、すでに到達した者と恋に落ちることによって、彼のなかに自らの本性を見いだすことによって可能になる。あなたはただの種子でしかないが、師は開花に至っている。それがあなたに上昇したいという、自らも花になりたいという熱望を与える。それは学ぶということではないし、教えるということでもない。師への深い愛がすべてを決める。

              「ボーディダルマ和尚:めるくまーる社刊」より

これは自分が本来あるべき姿、花開くひとつの花であり、孤高の個人になることへの渇望を師への恋によってもたらされるというものです。そして、師への愛が深ければ深いほど、その渇きはより自分の本性へと向かわせるというものだ。それは知識によって到達されるものではないという‥。

 

私なりの解釈では、誰かに恋をするということは、相手を通して、自分自身の何かが意識され、結晶化していくのだと思える。それは、相手を通して、自分の心の何かが動かされ、魂の奥深くで揺さぶられるのである。そうすると、現実の相手とは、そのときの自分が抱いていたそのときのある理想のイメージの投影である。その投影像が、相手を良く知るに連れて深い愛情へと切り替わるのであるが、他方で恋は長続きするものではない。

相手に抱いていた恋心とは、自分自身の本性であるものへの予感に相違ないのではないだろうか?

そうして、人は絶えず恋を重ねるごとに、より自分の本性に近づいていくことになる。

人は自分の本性に近づく度に、いきいきすることができる。それは魂の深化していく、種子が芽を出し、枝葉を揃え、つぼみをつけていくように自然で喜びに満ちた過程である。

その自然な流れが滞っている状態が、苦しみを生み出している。

恋は人を生き生きさせる。そうでないものは停滞であり、何かへの執着だったりするのかもしれない。

恋は人をその魂の高みへと導いてくれる。外的なきっかけを通して、自分自身に秘められた本性を引き出してきれるのである。そして、その過程は、人が個人としてひとつにまとまり結晶するまで続くものなのだろう。

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2009年6月 6日 (土)

日本人と自我(5)

感情に流されやすい日本人(3)

日本人の多くは自分の意見というものを持っていない。こういうと、叱られるかもしれないが、実はこれは日本人に限ったわけではなく、日本人にはその傾向が強いというだけである。わたしが云う「自分の意見」という意味はあなたが自分の体験から学んだ事柄を自分の中で消化したものをいう。

私たちは、「自分の意見」というとき、それは本当に自分の意見だといいきれるのだろうか?

人の意見を聞いて自分が納得すれば、それは自分の意見となる。しかしそれは、結局は他人の意見でしかないことが多い。なぜなら、それらは単なる言葉遊びで終わってしまうからだ。仮に人の意見に納得したとしても、それを自分の都合の良いように、または自分の理解の範囲内でしか理解できないことが殆どである。そういう単なる思考遊びについては議論するのも無駄だし、またどうでもいいことだ。

私が言う「自分の意見」とは、それが自分の体験から自分なりのつたない言葉で表現されたものをいう。いろんな考え方が飛び交う中で、それらに賛同することも否定することも、どちらも間違っている。それらは単に他人の意見を良くも悪くも反映したものにほかならず、それはたんなる反応であって、自分の中から導き出された「自分の意見」ではないからだ。

くどいようだが、「自分の意見」とは自分の体験から導き出され、自発的にまとめられた思考をいう。それ以外は人の意見に色をつけた思考の言葉遊びに過ぎない。

自分の意見を持つことの大切さとは、その意見が自分自身を変えた結果から生まれるものだからだ。この誤解を解かない限り、人は絶えず「自分の意見」という自我の優越感のもとに、人と比較したがることをやめない。

「自分の意見」は決して人に賛同を得ようとか思ったりしない。自分自身がこころの底から思えばよいのであって、だからこそ、それは自分を変える力となる。

それが「自分の意見」かどうかは、

それによって自分自身が少しでも変わったかどうかが目印であり、指標になる。

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