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2009年5月

2009年5月31日 (日)

日本人と自我(4)

感情に流されやすい日本人(2)

 自我の確立した個人に求められる資質としては、①自分にとって必要な情報を取捨選択する能力があること。②自分の選んだ情報を自分の持つ考え方に照らし合わせて判断し、自己の内面に位置付けることができること。などが大切だと思う。

自分の選ぶ情報は自分にとって必要であると判断できることがポイントである。

情報の洪水にあっている現代において、自分がどんな情報を求めているかが大事なのである。そう考えると、自分が何を求めるかにしても、自分自身が少しでもわかっていなくては始まらない。

 鎖国を取りやめてから日本人の多くが、自分の意見を未だ持たないということは、西欧社会のさまざまな文化を取り入れ、吸収するのに役立ってきた。その一方でこの日和見的な態度は、かえって自分たちのそれまでの伝統や文化の持つ意味を見失わせることにつながった。

日本人がそれまでに培ってきた文化の意味合いを忘れかけてしまったのである。

自分の意見とは、それは相手をやり込めるための道具などではなく、自らの考えが、相手とどう違うのかを論ずることである。それは相手の価値基準に対しても寛容であることが、自我の確立した人間の前提であり資質である。そこには個人というものがある。

自分の意見を持たないということ、それは自分の行為に責任をとらないということである。

何をしようと、都合が悪くなったら、世の中にある色々な考え方を持ち出して、自分の行為を正当化する根拠にしようとする。それはつまり、自分を律する行動規範がないことを意味する。だから、「何をやっても正当化される」のが現代の風潮であり、問題ではないだろうか?

人の非倫理的な行為を非難することは誰にだってできる。しかし、非難をするのは自分のちゃんとした意見を持っていないからに他ならない。だからこそ、ある時は、Aの立場に、別の時にはBの立場について、それぞれを批判しようとする。他人を批判したがる人の多くは、必ずといっていいほど、反対側の立場に回っている。それは自我の批難したがる傾向の表れでもある。だからといって、彼らは自分の意見を持っているのではない。それは、他人の批判をすることによって「自分の意見」を持たないことを覆い隠す機会を与える。

他人を非難したり批判する人は、「自分自身の意見」を持っていない。

いま一度、自分の意見を持っていない根無し草ではなく、自分たちの風土や文化に触れ、その忘れられようとしている精神を取りもどすことが必要なのではないだろうか? それは必ずしも日本の伝統文化に触れることを意味しているのではない。身近な自然に感じるこころ、その感性を磨き上げること、美しいものに感動し、美しいものとそうでないものとを見分ける感性を養うことである。

 情に流され易い私たち日本人ではあるが、一方では情報操作に惑わされ易く、集団催眠にかかり易い危険が常にあるということ。

他方ではこの情の深さは身近な自然に感動する繊細さを含んでいる。日本の四季折々の情景が私たち日本人というものを育ててきたことを忘れてはならない。

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2009年5月23日 (土)

日本人と自我(3)

感情に流され易い日本人(1)

日本人は一時的な感情に流される人が多い。感情に流され易いというのはそれだけ情緒豊かさと繊細さを持っている日本文化の特質なのであろうか。俳句や短歌の短い言葉のなかに、さまざまな想いを込めて表現するのが得意なのは日本人ぐらいなのかもしれない。

さて、言葉少なめに自分を表現するのが得意ならば、それを補うべく、場の空気を読む鋭さも確かにあるのだろう。場の空気に支配されて、ひとは何も言わなくてもお互いに分かり合えるのだ、という共同幻想が生まれる。

 日の丸ニッポンを掲げて、アメリカにそそのかされて第二次世界大戦に突入してしまった。国のためなら死ぬことも厭わないという考えに支配されるのも、当時の日本の1つになって戦おうという国民感情に支配されたからではなかったのだろうか。

当時、何かが間違っていると思いながらも、戦争に出向く戦士も少なからずいたのではないか。それら少数派は国のためというよりは、自分の家族を守るために戦おうとしていたのに違いない。

 

昨今のテレビドラマでは感情に訴えかける番組が未だ高視聴率を収めているように思う。感動や涙を誘うものは人気がある。それだけ日本人はこの「情け」を大切にしてきた民族ではなかったか?

 

今日の新型インフルエンザ対策の国の対策や、マスコミの取り上げ方には少々大げさな気がしないでもない。外国ではマスクが売切れるとか、学校閉鎖などしないなどと聞く。

そもそも、インフルエンザ対策にマスクは有効なのか? 既にかかった人がするなら他人に移さないようにするためだとわかるが、自己防衛のためには安いマスクではとても防衛にはならないはず。今回の報道は少し過剰な気がする。

しかし、私たちは、報道番組をいつも無批判に信じてしまい過ぎる傾向にある。それはやはり日本人の感情に流され易いという文化的心理的な背景があるからなのかもしれない。

 私たちは、自分と他人とを区別する意見というものを持っていないのではないか。情報に流されてしまい、あるときは右に寄り、あるときは左に寄る、それもその時の気分次第で、または好きな誰かの言うことだから「私は信じる」といった傾向がある。

日本人は必ずしも西洋のように自我を確立する道を選ぶ必要はないと思う。そのことは特にアメリカにおける昨今の過ちに現れているようです。西洋の個人主義は、個人と個人を区別し、分析することに力を注いできたが、全体との調和を図るという努力はしてこなかった。これに対して、日本人は全体にまとまろうとする和の精神があったが、最近は個人主義的な風潮がある。

今、国際競争力を身につけるために、西欧の個人主義を身に着けてきた人達の一部には自分の意見を持つようになってきている。しかし、まだ少数派でしかない。

今後、自分の意見を持たないことは国際社会から誤解を受けたり、取り残されてしまう。私たちは、何が正しくて、何が間違っているかという、少なくとも確かな批判力を養うためにも見かけ上の自我というものを確立しなければならないのだ。

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2009年5月17日 (日)

日本人と自我(2)

日本人の自我(2)

今日では、政治家や官僚の度重なるお金に絡む不祥事が日常茶飯事になっている。また企業のリストラや、非正規労働者の使い捨て、介護制度の形骸問題など、同じ日本人かと思えるほど、格差社会が拡大してしまっている。このことは何を意味するのだろう?

その前に、日本人の意識がどのようにして変移してきたかを知ることによって、私たち一人一人の向かうべき方向が見えてくるかもしれない。日本人の一人として、私たちがどのような日本的な風土や文化の呪縛にとらわれているかを冷静に見つめ直すことによって一人一人の意識の何かが変わっていくことを希望する。かくいう私も、日本人という枠組みをとらえ直す作業によって、私たちの心の中にある良識を見いだす手がかりとして、自分自身も何かが見えてくることを願い、「日本人と自我」について、深く掘り下げてみようとするものである。

 

 日本の社会は今日においても物質文明の発達した割には、公的な場での精神文化の発達が遅れた社会である。それは、国家の一員であるという公的な立場と、私的なプライベートな個人であることの区別の自覚のなさからみてとれる。身近な例では、外国の会議の醜態で報じられた日本人大臣の一例からも察するところである。しかし、そのことは、自分はどうであろうか? とそのことは同じ日本人として、危機感をもって問題提起されているのである。

 日本という国は天皇を中心とした家族国家であり、公的なものと私的なものとが混然一体となっている。もともと日本という国は、母系社会であり、その社会の特質は「運命共同体」的な個人以前の自然集団的な農耕民族として生活し、その中での個人とは、全体のなかでのみ位置づけられ、価値づけられる存在であった。戦前の大家族制度では、個人としてのわがままは通されず、常に「家人」としての規範に基づき行動をするのが常であって、「家」に泥を塗らないような個人の行動がそこには意識されていた。従って、他律的ではあるが、道徳律の基本がそこには存在し、封建制度的な家長父の云う事が絶対的な権限を持っていたとされている。

戦後、家族制度は、核家族化へと向かい、いわゆるマイホーム主義へと変貌してきた。核家族の特徴は、父親は外で稼ぎ、家の家事や子育て、教育は母親に任せるといったものである。父親は、家族的な企業への忠誠を尽くしてせっせと働き、家では母親が自分の主となった。そしてこの頃の夫婦間に至っても、お互いを高めあう上でのコミュニケーションというものがなかった。

 政治家が国民の税金を自分の家族や親族のために平気で使うという心情は、公私混同からくるものである。そこには公私混同し易い背景がいくつかある。

そのひとつに、日本人は国家を中心にした家族国家であると同時に、血縁や自分の所属する団体や企業、地域集団の一員であり、そこには個人がその集団と未分化な状態にあるといった問題がある。三世代議員というのも、身内だけによる利益享受以外の何物でもなく、そこでは個人の理想、能力などは度外視され、それぞれの集団エゴとして、身内には甘いという心理的な特色がある。というのも母系社会の特質と同じである。母親が自分の子供は、たとえ悪いことをしようとしまいと皆、平等にかわいいと思うのと同じ心理である。また、母親の溺愛が、子供の自立を阻害し、個人として自分の意見を持たない、自我の未熟な大人を世に送り出してしまうのである。それでも、日本の社会では、イデオロギーの対立など、主義主張の異なる者どうしの議論を戦わせる場が少ないので、それでも何とかやっていけるのである。それはつまり、自分の所属する集団エゴの中にいて、忠誠を尽くしさえしていれば、周りがそれを支えてくれるという仕組みになっているからであり、年功序列型の社会であるから、当該ポストでやっていく能力がなくても、できるひとが陰で段取りをとってくれているのである。そのようにして今までの日本の社会は母系社会そのものであり、国際社会の厳しい現実と向き合うことさえしなければ、なんとかやっていけたのである。

戦後日本の工業を中心とした急成長も、この家族的な企業戦士の育成が成功した一例である。しかし、時代は今、転換期を迎えているように思われる。

日本の急激な経済発展の一方で、核家族の暗い一面を見落とすわけにはいかない。対等なコミュニケーションの相手としての夫、すなわち共に成長し、子育てする担い手としての主を失った妻にとって子供は自分の思いのたけをつぎ込める唯一の存在であった。そのため、否定的な母親の欲望の犠牲になった子供たちがいた。自分ができなかった夢を子供に託す母親や、今でもある育児を放棄してしまう母親などによって、子供への十分な愛情が示されずに育った子供たちが次第に増え始めた。(戦前や戦時中に至っては、子供たちは、心理的な飢餓状態というよりは、親を失って愛情の示されない親戚にたらいまわしにされた子供、物資に不足し、必要なものさえもあまり与えられなかった貧困な子供たちが多いという現状だったという。)

この愛情不足によって育てられた子供たちが、次世代の親となるとき、その悲劇はくりかえされていく。社会の治安が悪化していく原因のひとつになっているものと思われる。

 他方、この頃から、政治家は自分たちの権力や利益を追求するために、一部の企業とけったくし、高度成長時代を経て集団エゴを肥らせてきた。本来、国民の公僕であるべき政治家が、自由民主主義というみせかけのイデオロギーを掲げて、単なる利益追求団体になってしまったことは母系社会の成り行きの果てであった。それに輪をかけて単独政権が長く続いたことによって、国民生活との生活水準のかい離がさらに広まっている。

その一例として、最近麻生政権が掲げている中流家庭を中心とした、中福祉、中負担国家の実現の裏には中流以下の家庭を切り捨てるといった懸念がつきまとっていることが挙げられる。

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2009年5月10日 (日)

日本人の自我(1)

自我の確立とも言われるように、人間は自我を確立してこそ一人前などと言われる。

もともと、「自我」という言葉はキリスト文化圏のヨーロッパで生まれた。私が最初に自我という言葉を知ったのはデカルトの「我思うゆえに我あり」だったように思う。

自我という概念は、西洋では個人主義へと展開し、人間が個人としての自分の意志や欲望を明確に表すことが良き事とされるようになった。しかし、その一方では自分の意思決定によってなされたことには自己責任がつきまとう。よく、何々をする権利とか云われるがその権利の行使の裏側には義務もある。したがって自分を主張するからには、その結果においては全て責任を自分で負うのである。

「自我」という概念は近代民主主義の発展とともに、個人の自由意志というものが尊重され、産業の発展に伴って必然的に個人主義として実を結んだ。

もともと、西洋の個人主義は、キリスト教の神との関係において成立するものである。キリストの父なる神との契約により、個人の自由意志が保障され、自由意志に基づく行為には責任もあった。それは、神が自己の行為を監視し、生前に良い行いをしたかどうかが審判にかけられるというものである。

我々日本人はこの西洋文化圏の個人主義の表面的な面だけを取り入れてきたように思う。

そもそも、仏教圏である日本人にとって、この個人主義というものはなじむことのできないものである。

日本はもともと天皇を中心とする「家族主義」の国である。日本の家制度は、一家の家父長制度であり、家長である父の意志がその家の法律であり、そこには絶対の権力があったとされている。しかし、第二次世界大戦による日本の敗戦とともに、この制度は崩壊した。

しかし、戦後も企業の終身雇用制度や、学会の派閥など、それぞれの場所と活動領域に家的なしがらみを持って影を潜めて存続していた。

日本のこの家族的な守りに支えられて戦後の復興を成し遂げられたと思う人は多いはずである。家族的な守り、言い換えると集団的な支えによって個人はその中で比較的自由に生きてこられた。その反面、他の仲間より才能のある人はその芽を摘まれることが多かった。なぜなら、家族的な暗黙のお決まり事みたいなものがそこにはあり、そこでは才能があるからといって、年配者を出し抜くということはできなかった。そこには日本的な平等観がある。日本人的な平等観に支えられて、みんな中流意識で働いてきた結果、今日の日本の発展がある。一方で、この平等観は、みんなと違うことをする人をいじめたり、仲間はずれにしたりという状況も生んでしまう。平等観、その背後には個性などないのがよいとされる汎個性的な生き方が望まれる。   

日本人に限ったことではないが、日本人には他人の生活、とりわけ隣近所の、もしくは、芸能人や有名人の私生活がとりわけ気になる存在になっている。それはつまり、自分たちの幸せのひとつの指標になっていること。「私もあんな生活がしてみたい、あんな風になりたい‥」という羨望。

もうひとつは、他人の不幸を覗くことで、自分の今のしあわせをより噛み締めたい、「あのひとに比べたら、私はまだしあわせなんだ‥」という安堵。

日本人は、極めて平等を好む民族である。それは島国で単一民族ということも関係しているのかもしれない。平等を好むからこそ、他人の生活をより気にする民族なのかもしれない。悪く言えば、そのことが、生活の画一化を生み、個性を育てにくくさせている側面もある。

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2009年5月 3日 (日)

存在

存在という言葉は和尚を理解するひとつの鍵である。神、永遠などといわれるが、和尚が使う存在は独特の響きを持っている。

私たちは生きている。それもいつかは死ぬべき定めを引き連れて‥。

生きるということは、死に対して如何に準備を整えるか、ということだと思う。もし、この生が死というものを約束されなかったら、どれほど長い久遠の時間を退屈して過ごさねばならないか。死があるからこそ、生きている今を生き生きと、しかも新鮮に過ごすこともできる。

 

生は死と相対的であり、一方が他方なしに存在することはありえない。

これに対して、存在とは生死を超えて在るもの、時間を越えて常に在るものを指している。

 

 覚えておくがいい。死を超えるものは、生をもまた超える。それゆえに神は生きているとも言えないし、そのように言うのも愚かなことだ。死に支配されることのない神を、生きているとみなすのは無意味だ。‥ 神にはいかなる生もない。彼は存在を手にしている。

いや、むしろ神は存在そのものだ。(和尚)

 私が思うのは、存在とは生死を超えて常に在るもの、そこから生命のあらゆるものが湧き出してくる泉、源泉であり、永遠の泉なのだ。

 私たちは、以前はそこに居た。というよりは存在として分かたれていない意識であり、光であった。私たちが生まれてくるということは、そこから個々に意識が分かたれてこの有限の世界に仮の住まいを得たということでもある。だからこそ、私たちは帰るべき場所もあり、日々自分自身を研磨しなければならないというのも、存在こそが吾が唯一の永遠のふるさとではないかと思えるからである。確証は無い。しかし、道に迷ってしまったら、私たちは「自分が一体どこから来たのか?」考えてみるのも良いではないか。なぜ私たちが限りある生を与えられたのか、その理由を考えるのは、日々をただ生活に追われて生きるだけの状態から、一歩前進したということでもある。

 毎日の生活に困らなくなった時、自分の生きてる意味を考えないのは、死ぬ時に必ず後悔するのではないだろうか。それでは死ぬことの不安をいつもどこかに抱いて、毎日を人間として充実して生きているとはいえないのではないか。存在について考えることは、単に神とか自然、道について考えることではない、それ以上に自分自身のルーツについて深く掘り下げていく試みなのではないでしょうか? 

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