« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »

2009年4月

2009年4月25日 (土)

置かれた状況(2)

自分の身の回りの環境が求めているささいなことに耳を傾けてみよう。

環境はあなたを求めている。あなたを必要としているのだ。誰がということではない‥、それは環境があなたに何かをさせようと訴えているのだ、そう考えられないだろうか。

適材適所ということがあるが、ひとは必ずしも適した場所に生きているわけでもない。それには様々な理由が考えられるが、一番の大きな理由は、私たちはひとり一人が抱えるカルマの数が多いので、あれもこれも一度に処理することはできない、ということ。だからこそ、現実に身の周りで起きてくる出来事という課題に対して、ひとつひとつ処理していかなければならないのだということ。しかし、自分一人では処理仕切れない問題が起きてくることもある。そのときは、一旦そこから離れてみるのもいい。まだ、自分にはそれを解決する力が身についていないのかもしれない。手助けしてくれる誰かが現れるのを待たなければならないのかもしれない。

また、自分に起きる出来事に振り回されていては、冷静な判断もできない。それに巻き込まれないためにも、自分についての内省、自分自身について絶えず振り返ってみることも必要だということ、なのだと思う。振り回されていると感じる時こそ瞑想するのにふさわしい機会なのではないだろうか?

 呂祖は「自分が置かれた状況を受け容れなさい。それはあなたにふさわしい状況にちがいない。だからあなたはそのなかにいるのだ」と言っている。<存在>があなたの面倒を見てくれている。それは何らかの理由があってあなたに与えられている。それは偶然ではない。偶然に起こることなど何もない。

何であれあなたに必要なものがすべて与えられる‥。

「どうしてこんなことばかりさせられるのだろう? 」

「俺にはもっとしたいことがある、こんな仕事やってられない」

「仕事がみつからない、明日どうして生きていこう‥」

「友達もいないし、結婚もできない、孤独で寂しくて仕方がない‥」

「毎日生きてるのがつらいょー なぜ私は生きているのだろう」

「生きてたって仕方がない‥」

今の自分の置かれた状況に意味がある。もし、そこから抜け出したかった、そうなってしまった状況ででも、自分にできることがある。そこから逃げられないし、逃げられないのだったら、どうしてそうなったか考えてみることだ。考えることもできなかったらその状況を存在があなたに与えた試練と受け止めよう。そこから逃げない限り、その状況は決していつまでも続くことはない‥。

‥あなたがどのような状況のもとにいようとも、それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。‥

どんな状況も、それは自分に与えられた乗り越えるべき試練なのかもしれない。

以上、太字「黄金の華の秘密:和尚/めるくまーる社」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月18日 (土)

置かれた状況(1)

 人は最初から何かをやりたいとか、自分の夢を抱いて生きているのではない。

そしてその夢は現実に叶えられるためにはそのタイミングがある。一体、誰が江戸時代にプロ野球選手になりたいだとか、飛行機に乗りたいなどと思っただろうか。

それゆえに、夢や自分の目標、したいことなどは、その時代背景によって異なるものである。

今、自分のやりたいことが見つからない人のために、ひとつ視点を変えてみよう。

それは、人は自分の置かれた状況からしか動けないし、そこからしか、何も始められないということ。であれば、人が夢や目標を持つのは、それがいつも必要不可欠のものではなく、時の必要に応じて自分にもたらしてくれるものだと思えるのである。

どんな職業に就きたいとかいうのも、始めは漠然としているものである。子供の頃に抱いた夢や憧れが、単なる夢で終わってしまうのは、彼や彼女の環境が現実味を帯びないからである。人は周囲の環境によって育てられる。

それでは具体的な現実味を帯びるにはどうしたらいいか。それは自分自身で具体的な夢や目標を強く願うことである。願うだけでは夢は叶えられないなどと、人は云うけれど、それは結局は、自分の意志がそれだけ強くなかっただけのことだと思う。ポイントは自分自身の心の底から真に願えることしか、夢が叶えられないし、周りの環境も夢が叶うように整っていかないということなのだろうか。どうしても叶えたい願望なら、どんな障害も乗り越えて行こうとするものである。

自分の心の底から真に願えることこそ本者だと思うが、そのような願いは実際にそうなかなか待っていて起きてくるものではない。では、今真に願えること、夢や目標がない人はどうしたらいいのだろう。

私は、① 自分に今できること、 ② 人が考えないことを自分が思いついたらそれを実行していくこと、が良いと思う。

自分が今できることは、言い換えれば他の誰かに今、自分が必要とされていることでもある。その自分の必要性を自分に求められていることを行動していけばよいのである。

もうひとつの、人が考えないことで自分が思いつくこととは、他人がしていることで、「自分ならこうするのになあ‥」といったことがあると思う。その時に、あなたは多くの人の気がつかないことにあなたは気がついている、ということだ。そのことは自分自身の生き方の方向を示しているのだ。それを他人に「こうしなさい、ああしたほうがいいですよ」と説教する人の多いことか。

他人に言う前に、それを気がついている自分が率先してやる。そのことで、周りの人が喜ぶのである。他人に指示して、命令してやらせると、相手はやらされている感じかするし、自発的な行為ではないから、その後が続かないのである。だったら自分がやればいいではないか。

公園のゴミを拾ってゴミ箱に集めているいるご老人を見れば、彼はいうだろう。「私は今自分のできることをしているのです。見苦しいと思ったし、毎朝散歩に出ていてそれに気がついた私がやらねば、誰がやるのでしょう」。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年4月11日 (土)

遊び心

遊び心とは、生きてく上で決して無くしてはならないものだ。それなのにどれだけ多くのひとがこの遊び心を無くしてしまっていることか。

人生を深刻なものにしているのは自分自身だ。そのことがわからない限り、ひとは決して創造的に人生という果ての無い航海を楽しむことはできない。しかし、このことは誤解も多い。ただの娯楽として、息抜きとして捕らえると問題の本質を見失ってしまう。適当に努力しないで軽く、浅く楽しめればいいというものでは決して無い。みんなに嫌われたくないからと、共通の話題を見つけて世間の中に埋もれてしまってもいけない。

また、ゲーム感覚で命の大切さもわからずに他人を簡単に殺してしまうという事件が断たないのも、現実をきちんと生きていない、生きようとする気もない人たちの増えていることが原因ともとれます。

要は、自分が何をしたいか、したくないのか、自分はどうありたいのか、周りを気にせずに自分の目で確かめ、自分の意思を持つことが、生を創造的に楽しむための前提にもなっている。なぜ人に合わせようとするのか、なぜ楽して、安全に生きたいのか、自分らしく生きようとしないのか、そこには様々な問題があります。本題に入ろう。

 生は、解くことのできない神秘だ。もし説明できるなら、神秘などではない。生の中に使命などというものはない。なぜなら、神秘に使命などありえないからだ。ただの戯れ、リーラだ。

 この全存在は、ただのエネルギーの戯れだ。戯れとは、無目的な何か、あるいはそれ自体が目的である何かを意味する。達成されるべきものなど何もない。まさに行動そのものが、達成だ。生は何の使命も持たない。というのも、生それ自体が、達成だからだ。

だからあなたは様々に生きることができる。たくさんのことができる。それはすべて、たんなるエネルギーの流出、目的のない宇宙の戯れだ。だからこそ神秘なのだ。

以上太字「グレートチャレンジ 和尚(市民出版社)より」

 私たちが生まれ変わりを信じて、何かこの世界にやり残しがあって生まれ変わってくる、というのは半分は本当のようにも思える。それは、会いたいひとに出会えなかったとか、豊かな暮らしができなかったとか、権力を手に入れることができなかったとか、死ぬ時に、様々な思い残しや、マインドの痛みがあるからに他ならない。その自我の苦痛に閉ざされた想いが次の生へと流れてゆくのかもしれない。しかし、ここでいえる事は、それでも、それは自分で選んだことなのだということ。仮にそのようなつもりがなかったとしても、基本的に新しい生を得た後に、何で私はこんなに苦しまなくてはならないのかと思うとき、その種をまいた自分に少なからず責任がある。

 また、使命感をもって、何かをやろうとして、志し半ばで死んでしまうこともあるかもしれない。そんな時はその続きを次の生で実行し、夢を叶えようとするのかもしれない。そういう風にして、自分の生というものが回っていくのだとしたら、逆に自分の心の変化ひとつで、あっさりと肉体を持った生を終わらせることも可能ではないだろうか?

 

私たちの小さく狭いこころは、いつも何かに執着し、しがみつこうとする。もし、気持ちの整理がついたなら、執着する気持ちがなくなったなら、きっとこの人生が本当にただのエネルギーの戯れであり、達成されるものなど何も無いのだと、笑い飛ばすこともできよう。そういう視点もあるのだとこの文章から諭されるのです。

それは私たちが子供の頃にやる人生ゲームのように、それにのめり込んでいるけれど、夢中になっている自分の存在にいつも気づいているということができるかどうかが鍵となるような気がします。そうした気づき、意識付けは、自分の生に少しばかりのゆとりをもたらしてくれるのではないでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 4日 (土)

個人と群衆(2)

 私は、世界にどんな群衆があることも望まない。彼らが宗教の名のもとに集まっているのであろうと、国家の名のもとに集まっているのであろうと、人種の名のもとに集まっているのであろうと関係ない。

群衆というものは醜いものであり、群衆は世界でもっとも重大な罪を犯してきた。なぜなら群衆には意識がないからだ。そこには集団的な無意識がある。

太字「反逆のスピリット:和尚ラジニーシ(めるくまーる社)」から抜粋

 いままで起きてきた国家間の争いも殺戮も、群衆心理のなせる技である。自分が群衆であるかどうかは、自分自身の意思に基づいた判断で行動ができるか? ということだと思う。しかし、これは自分が育ってきた環境から自由にならないといけない。今まで自分の意見だと思っていたものが案外、身についた習慣による思い込みであることが多いものである。

また、群衆であるということは、他人のすることが原因になって行動を起こしているということでもある。それが復讐であれ、報復であれ、偽りの愛であれ、他人の行動により従って自分は反応しているという現実に変わりはない。それはまさにイエスの云う「相手にしてもらいたいことを他人にしなさい」ということだ。いわゆるカルマの法則とは、自分のした行いが跳ね返ってくるというものだが、それを期待して良いことをするというのでは、未だカルマの法則に囚われているということだろう。囚われていることが悪いというのではないが、自分のしていることが自分自身にどう返ってくるかを常に想像することは賢明になるためには必要である。

さて、相手の反応を見て行動するというパターンがある限り、世界は良くならないし、世の中、群衆心理で歴史が動いてきた史実をみても、それが悲惨な状況の繰り返しであったことを思い起こさずにはいられないだろう。どんなときでも、状況に振り回されず、そこを離れてみる視点を持つことが、本来の自由な自己の在り方であり、私たちはそこへ向う旅人でもあるのだ。

個人であるということは、反応ではない。自分自身の自発的な意思、湧き出てくる動機に従う者が個人である。そして、和尚は、「寄せ集めの群衆から個人を連れ出し、彼らに<個性>と尊厳を与えること」をワークにしてきた。私も、群衆から抜け出したいといつしか思うようになった一人である。しかし、気を緩めると、いつの間にか群衆に立ち戻ってしまう自分がいる。なぜなら、群衆心理とは、集団無意識のことだからだ。集団無意識は、気づくこと、気づきの努力がなければ常に私たちを自動的に包み込んでいる便利な無意識でもある。

無意識ということが否定的に使われるなら、例えば「思わず‥‥してしまった」というようにそれは相手を傷つける刃物にもなる。意識的になれば、そのように過ちを犯す機会も減ってくる。現実は住みづらい世界である。この認識がまず出発点である。

言い換えるなら、意識の光で自らを照らし出すことが、ひとりひとりに求められている。至福に至る道のり、永遠の泉への道のりとは、この無意識状態からいかに、意識的に、個人として目覚めてゆくのかという過程に他ならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年3月 | トップページ | 2009年5月 »