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2009年3月

2009年3月28日 (土)

個人と群衆(1)

 世の中は、群衆でいっぱいだ。私は群衆ではないと言えないが、少なくとも個人になりたいと思っている者の一人である。群衆について和尚は次のように述べている。

 群衆というものはすべて寄せ集めの一団だが、個人は決して寄せ集めの存在ではない。 個人はみな真正な<意識>だ。しかし、群衆の一部になった瞬間、人は自分の意識を失ってしまう。そうなったとき、人は集団的で機械的な精神に支配されるようになる。

太字「反逆のスピリット:和尚ラジニーシ(めるくまーる社)」から抜粋

 群衆とは個人と対立するものだ。というより、殆どの人は無意識な状態でこの世に生を受けた。そして、人はそれぞれが、自分自身が群衆であるということに気づかざるを得なくなる。私たちのこころは群衆心理そのものである。

群衆心理というものは、メディアの催眠術にかかったように、自分の意見と思っていたことが、それは常に有名な誰かの言ったことと変わらないことを示している。別に変っていることが良いことだというつもりはない。しかし、今日のように情報収集が大量にしかも多彩に入手できる昨今では、人は簡単に情報操作によって大衆心理に陥り易いのだと指摘したいのである。

そして、私たちは、自分の体験をもとに自分の意見を見出す以外に個人として歩む術はないことを知るのである。

私は何故、人が個人になろうとするのを拒み、群衆にとどまろうとするのか?

その理由は自分に自信も持てず、他人に認めてもらうことや、一緒に行動することで自分自身の孤独と向き合う恐れから回避できるからだと考えています。

私たちは自分らしくあること、自分自身で立ち上がることと引き換えに、他人の敷いたレールを歩くことや、他人と同じ考えや、生活様式に守られて生きる気楽さを得てきた。

しかし、自然は人にいつまでもそのような状態でいることを支持しない。

 

人が個人として生き始めることの素晴らしさ、美しさを過去の賢者たちは幾度と伝えてきた。しかし、そこへたどり着くまでの道のりが険しいがために、その代用としての権力やお金、他人を利用した様々な欲望が渦巻いている。そう考えれば、この世はまさに、ひとが群衆から個人へ向うには絶好の人間道場であるに違いない。

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2009年3月20日 (金)

欲求不満(2)

 私たちの関心は常に、世界を変えることにある。それはただの逃避だ。他人を変えることに関わる人々は、実は自分たちの欲求不満から、自分自身の葛藤、不安、苦悩から逃避していると、私はいつも感じてきた。彼らの行為は、心の焦点をほかの何かへ向けるということだ。ほかの何かに関りっきりにさせている。- というのも、自分自身を変えられないからだ。自分自身を変えるよりも、世界を変えるほうが簡単だからだ。

 小さな自分のこころは色々な習慣、社会の規則、親の影響などでがんじがらめにされてきた。親や国家、すなわち社会があなたに期待してきたものが、あなた自身の重荷となり、それが今度は他の誰か、友人や子供、身近な人に自分の叶わなかった思いや欲求不満を投影してしまう。

あなたはあなたとして存在している。それは、存在があなたに与えた一度っきりの可能性に過ぎない。それを他人の願望のために犠牲にしてきたことの問題は数え上げればきりがない。本当の自分を取り戻すためには、今一度、自分とはいったい何なのか問い直すことだ。そして自分自身を変えてみようとすることも大切だ。

 柔軟なこころでいることが、色んな人の立場も理解でき、そのことが、それぞれの立場を離れた視点で冷静に見ることもできるようになるのではないだろうか?

 人は誰もが期待する。そして、期待の輪の中で自分たちが自ら不自由な存在となってしまう。この滑稽な現実をあなたはどう診るだろうか?

 世界は欲求不満だ - それは事実だ。そしてあなたは、なぜ自分が欲求不満なのだろうかと、その理由を探し出そうとする。原因は自分の期待のせいだということを見つけるだろう。それは種子だ。根本原因だ。それを投げ捨てなさい!

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より抜粋」

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2009年3月14日 (土)

欲求不満(1)

 誰のこころの中を覗いてみても、そこには何らかの欲求不満がある。

なぜ欲求不満があるのだろう。そこには期待があるからだと和尚は云う。

期待をすれば欲求不満が生じる。だから、期待しないことだ。そうすれば欲求不満もない。欲求不満は副産物だ。期待すればするほど、欲求不満を作り出す。

欲求不満は、本当の問題ではない。結果としてそうなるというだけで、期待こそが真の問題だ。

 自分に対して、何でも用事を言いつけられて、友達でもないのにと思い、それで相手のことを嫌になったりすることはないだろうか? 相手にしてみれば、それは自分の自我の望みを叶えてくれる良いカモだと思っていることだろう。そして、相手の期待はどんどんとエスカレートしていく。

自分は相手のために犠牲になっていると思い、欲求不満になる。さて、自分は相手に対して何を期待していたのだろうか。彼に対してはいわゆる「いいひと」思いやりのある優しい人であることを期待していたに違いない。

 自分だけが期待していないと思ってはいけない。相手も、自分もそれぞれの自我の要求や価値基準に従って、「これこれこれだけのことはやってくれるだろう」と淡い期待を抱いているのではないだろうか?

 

期待はだれもが抱き持つ。そして、「あの人にはこういうことをしてあげたのだからきっと‥」なにか返礼がきて当たり前だと思っている。そして、してあげたことの見返りが来なかったら、「裏切られた」と思うだろう。

 人は誰も他人のために生きてはいない。この事実から逃げることはできない。

誰かに期待を寄せる前に、自分が愛情豊かな人になればよいではないか。相手に期待するということは、相手に振り回されるということ、そこに個人としての自由は無い。だから、人は個人ではなく、大衆であると云われる。

 世界のことなど考えてはならない。自分自身のことを考えなさい。あなたこそが世界だ。それに、あなたが変われば世界は変わる。あなたの一部が、あなたの本質的な部分が変わり始めたら、世界は変わり始める。

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より抜粋」

 自分から変わらなければ、相手は決して変わらないとよく云われる。それは意識のうえでは、お互いに切り離された関係ではないからだ。しかし‥‥

 だからといって世界を変えようとするつもりで自分を変えようとしてはならない。それは結果でしかない。動機が問題となる。相手が変わるのは自分が変わったからであり、それを取り違えるといつまで経っても関係は良くならない。相手に対する淡い期待をまず無くすことだ。それは難しいとまた、いうのである。それは感謝する気持ちが少ないからではないだろうか? 感謝する気持ちが大きければ、それだけ期待する気持ちも少なくなるのではないだろうか?

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2009年3月 7日 (土)

美への追求

 日本人は恥の文化ともいわれるくらい、他人にどう見られるか、無意識に感じ取り、これをしたら恥ずかしい、と自分の行動を律してきた。今の政治家にはそういった態度も見受けられなくなってきている。それは政治家だけなのだろうか?

 自分がしていることが恥ずかしいと感じること、そこから物事の美しさについての理解が始まる。

 美への追求とは醜いもの、自分がそれをしたら見苦しいと思う行為をしないところから始まるように思う。別に見苦しいと思っていないのであれば、その人に成長の可能性はない。しかし、見苦しいと思いながらその行為を止めることができないのなら、その行為が他人に及ぼす不快感について思いを巡らせてみよう。

 醜さは他人に対する一種の暴力だ。この醜さは、どんな形でもとり得る -あなたの行動の中に、言葉の中に、あるいはほかの形の中に存在し得る。

 行為だけではない、自分の言動のなかに、その一言ひとことのなかに、相手を不快にさせる言葉がないだろうか? 自分自身にこころの美しさを望むのであれば、そういった言動に対しても気づきを持つ必要がある。

 しかし、一体人は本当にこころの美しさなど望んでいるのだろうか?

私は、人はそれを望む前に、自分のあれもしたい、これもしたいという自我の欲求、または、本能としての動物的な快楽のみを求めているのではないだろうか?

自我の欲求は、それが決して全面的に叶うことが無い。だからこそ、人は目の前に幻覚である人参をぶらさげて、いつまでもそれを追いかけることになるのだろう。

 自我の欲求は人間の豊かな暮らしを支える基盤になる。しかし、自我は必要以上の快適さを求め続ける。欲求不満がさらなる欲求を追い求めるようにできている。

 これに対して、美への追求とは、こころの豊かさなのだと私はいいたい。その行ない、その言葉によってお互いに心地よく感じられるような環境作りへの追求なのではないだろうか?

 権力や欲望によって誰かが満足し、誰かが傷つき、犠牲になるような世界は真正ではあり得ない。現在の社会、それは分離感を漂わせた自我が単に自己満足のみを追い続けた結果である。

 自己満足によって他の誰かが傷つくという現実に気づこうとすることが、美への追求の一歩だと思う。そして、自分が良くても、自分に関わる人たちが不幸になることに、こころを痛めずにはおれない。

 わたしは、あなたが宝石を身に付けていても、間違ったことをしているとは言っていない。わたしが言っているのは、宝石を身に付けていても結構だが、あなた自身も宝石になってはどうか? ということだ。

 

‥ 美とは何かを、理解するよう努めなさい。すると、真理と善がおのずとついてくるのに気づくだろう。善とは何かを理解したらあなたは美と真理も理解するだろう。

以上太字「ディヤン・スートラ(瞑想への道):和尚:市民出版社より」

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