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2009年2月

2009年2月28日 (土)

感謝(2)

夢や目標が、固定的なものであってはならない。

私たちは、ひとつの目標に向かってゆく時、その途上で目標に修正を迫られる時もあるだろう。なぜなら、私たちは生きており、絶えず成長の途上にあるからだ。目標は自分のためにあるのであって、目標のための人生であってはならない。

自分にとって何が相応しい道で、何が相応しくないかは、誰にも決められない。それどころか、その時の自分でさえもわからないことの方が多いではないか。

同じように、自分の能力も、何に向いていて、どの方向になら自分を生かしていけるのかなんてわからない。本当にやりたいことがその道だということもあるだろう。けれども‥。

 何かをやろうとする時、周りのことに気づかないといけない。自分が今、できることは何だろう、身近で応援してくれる人は誰だろう。誰が心の支えになっているのだろう。あなたは、今何を一番望んでいるのだろう。それなしでは一歩も前へ進めないという心の飢えは何なのだろう?

 必要なものは与えられる。しかし、それは自分の真摯な切望に対して与えられるのであって、単に小さな自分の心を満たすだけの願い事に対しては、環境が変わってはくれないのではないだろうか?

 自分の足元にあるささやかな幸せに感謝することから始めよう。そのなかから、感謝するところからしか、真摯な願い事は生まれることは無い。その願い事こそ、自分の進むべき方向なのかもしれないのだ。

受け取るものに感謝の念を感じなさい。受け取らないものに煩わされてはいけない。これが感謝の基本だ。あなたの中に気楽さと明快さが生まれるのは、この基盤の上だ。

以上太字、「ディヤン・スートラ(瞑想への道):和尚:市民出版社より」

 自然があなたの進むべき方向を与えてくれる。自分が受け取ったもの、今受け取っているもの、それが良いことだろうが良くないことだろうが、すべて自分にとって意味がある。だから、今の自分を取り囲む状況に感謝しよう。

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2009年2月21日 (土)

感謝(1)

身近なもので、自分を幸せにしているものに感謝しよう。

 人が常に不幸なのは、自分の持てるものを忘れ、手に入らないものを得ようとするからだ。生に対してこのような基盤を持つのは、完全に間違っている。自分の持てるものを理解し、それをもとに生きる人間になりなさい。

以上太字、「ディヤン・スートラ(瞑想への道):和尚:市民出版社より」

 例えば家族の一人一人に対して、自分のことを思ってくれている親兄弟姉妹がいたら、その人に感謝しよう。

 欲しいものが手に入らないから、欲求不満になり、それが手に入って初めて自分が満足するのだという考え方は一般的だ。私たちは、日頃から何かを手に入れようと、計画し、あるいは夢や目標を抱いて、それに向かって努力する。何も努力することがいけないのではない。目標を持つことで、時間の使い方にめりはりがつき、自分が、目標に叶うような人間へと変化していくからである。しかし、問題は、夢や目標が叶わないといけないもの、それなしでは自分が生きられないものであると、事は深刻になる。

 私たちが常に犯す悪しき習慣は、既に手に入れてしまったものに対しては興味を失い、まだ手に入らないものばかりに目がいき、それにエネルギーを費やそうとしてしまうことだ。これは私たちが持っている基本的な自我の習性といっていい。そのために、足もとにあるものを大切にできず、常に欲しているものを、まだ叶えられていないものを得ようと躍起になっている。

 もし、今あるものを、そこで立ち止まり、深く見つめることができたなら、そこには現在もたらされているものが、数々の偶然的な出来事の積み重ねによってもたらされていることに気づくだろう。そして、その結果として今もたらされているものに感謝せずにはおれなくなる。そうしたことを今ここで、気づかなければ、何を絶えず求めていても、決して自分にとって真に価値のあるものは得られない。

逆説的だが、いまもたらされるものの意味について考えるとき、それがそこにあることの大切さに気づき、それとともにある自分に何ができて、どうしていけばいいのかが見えてくる。そしてそれが自然に生きるということであり、自分自身を取り戻す生き方でもあるのではないだろうか?

一度、立ち止まってみたい‥。

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2009年2月15日 (日)

バランス(2)

「‥‥私は、理性と同時に共存している非理性的なものに賛成だ。私は、そのふたつの間に永久的なバランスを取るようにとすすめる。

 重荷が感じられたらすぐにバランスが失われたと思いなさい。そしてそれが要求されるところはどこであれ、必要な重荷を加えることによって復旧を始めなければならない。

 もし知性が重いのなら、何か不合理なことをやるのだ。」

以上太字「グレートチャレンジ 和尚(市民出版社)より引用」

 この話で和尚は、理性によって何かを論理的に理解しようとする習慣づけられている人は、その人のこころの奥では、非理性的な部分が表現したがっているのだという。それは、例えば意味もないこと、ばかばかしいこと、それらは感じることを主体とした生の側面が生きたがっているということだ。そうやって人はこころのバランスを取ることが健康な生のあり方だという。

 

 生は合理的では決してあり得ない。私たちがたとえどんな人生設計を小さな自我の野望で実現しようとしても、たとえそれが自我の思い通りになったとしても、何かが欠けていると思うだろう。夢が叶わなかったらそれは自我の苦しみになり、執着が強まることになる。そうした、かたくななこころに捕らわれては生は重荷以外の何者でもなくなってしまう。

 

もっと楽に生きてみよう。人生はこうあらねばならないというものではない。また、生は死によってすべてを失うものでもない。そのような見方ができない私たち自身の中にこそ、生きることの苦しみの大半があることにいづれ気づく時がくるのだといいたい。

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2009年2月 7日 (土)

バランス(1)

人間は、その肉体を持っている限り、限定的に生きることを強いられている。

例えば、女性としての性、男性としての性、どちらかで生きなければならない。両方で生きることはできない。

しかし、こころの内面の問題として理性と情緒、頭とハート、善人と悪人、加害者と被害者、支配者と奴隷、これら対立するものは誰しもがどちらか一方を表面に出し、もう一方は無意識の闇の中に隠される。そのようにして私たちは、極端なこころの偏った傾向を抱きやすいのだ。このような偏ったこころの傾向を続けていると、次第にそれが重荷になってくる。

 役者は色んなひとの役柄を演じることで、生き生きすることができる。それはつまり、現実の自分が生きられない可能性を役柄を演じることの中で生きることが可能だからだ。

自分はこんな人間なんだと思ったら、そう思うこと自体が重荷になる。私たちは、自分で思うよりはるかに多面的な意識を可能性として持っている。残念なことにそれらは、ただの可能性で終わらせてしまっている。

 私たちは、いまだに完全な文化、全面的な人格、全面的な心というものを、考えたことすらない。

 全面性とは、相反する両極を、ひとつにしたものだ。だから全面的に首尾一貫した人格とは、不完全で部分的だ。それはある意味で、狂気へと続く途上にある。これは危険だ。首尾一貫した心に、表現や注目されたことを否定された部分は復讐するだろう。あなたの不合理な部分は苛立ち、恨みのこもった荒々しい力で、理性のすべてを粉々にするだろう。

‥心の両方の側面に、自分を自由に表現する機会を与えなさい。常にそのふたつのバランスをとりなさい。お互いを補足し合っているふたつの中で生きなさい。

以上太字「グレートチャレンジ 和尚(市民出版社)より」

 家族はもちろんのこと、友達関係や職場関係が固定されればされるほど、安全なことはない。しかし、その安全と引き換えにあなたは、人生をもっと生き生きと生きる権利を放棄してしまったのではないだろうか?

 自分の可能性とは、知り合い、関係する人たちの数だけ開かれているように思える。その関係の中で自分の色々な側面を表面化し、気づかされ、自分のこころの領域を広めていくものだと思っています。

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2009年2月 4日 (水)

空への想い

空を見上げると

沈んだ気分は

少し和らいで

嬉しさは、より輝きを増していった

そんな感情さえも

いつしか、どうでもよくなる

空を見上げれば

どんな思いも吸い取ってくれる。

ひとは誰でも

空に焦がれ

空を想い

空へ続く道を

尋ねてさまよう

一人ぼっちの旅人

空をじっと眺めていたら

抑圧されてきた

色々な心模様が

そこで薄められてゆく

誰の上にも

蒼いそらは

拡がっている

そして空は

絶えず雲を遊ばせて

いつもそこにあった

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