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2009年1月

2009年1月29日 (木)

信頼(3)

信仰にとって疑いは敵となるが、信頼にとって疑いは敵ではない‥

信頼は疑いを通して成長する。

信仰は疑いを抑圧することによって成長する。

信仰が一種の薬物であるのはそのためだ。薬物はまさにそのように働く。それは、あなたが愚か者にならないようにひたすらあなたの意識を醒めさせ、あなたが空想の餌食とならないようにしている疑う力を抑圧する。宗教は昔からずっとそれをやりつづけてきた。

‥そして「信じていれば、見えてくる」と言う。「信じていればやがてわかる」と。

最初に絶対の信があるのではない。少なくとも不信感を払しょくするまで疑い続けて、やがて疑うことが無意味になる地点まで、疑うことがばかばかしくなるまで疑い続ける果てに絶対の信頼があるのだと思う。しかし、これはデジタル志向、すなわち論理的思考の心の持ち主にのみ当てはまる。アナログ志向、すなわちイメージと直感志向、ハート志向のひとには当てはまらない。それはデジタル志向の人が自己の展開する論理的思考の矛盾点を導き出した果てにあるものだ。

信頼というのはまったく異なる現象だ。それは薬物に冒されていない意識、開かれた意識から生まれてくる。信じることもせず、不信感も抱かず、信と不信にとらわれた結論を抱かない、完全で純真無垢な意識から。

疑いは役に立つ。真理に到達するまで、疑いは助けになる。疑いは信頼の友だ。疑うというまさにそのプロセスが空想の餌食にならないように助けてくれる。

ひとが、瞑想のなかで成長する妨げになるものに自分の空想やイメージがある。イメージの力は大きいので、自分がそのイメージした通りのことが現実を通して起こると、それがあたかも自分に起きた出来事のように錯覚してしまう。

疑いとは、たとえ、自分自身が招いた空想でも、それを現実と受け止めず、立ち止まって傍観者として見る姿勢なのだ。

やたらと何でも信じたりしないこと、しかし、信じるべきものは存在する。しかし、そのための虚偽は自分から作り出してしまうこともあるのだと心に留めておくこと。

成長にエレベーターはない。それは一歩一歩自分の足で進まなければ自分のものにならない道のりなのかもしれない。

太字「黄金の華の秘密:和尚(めるくまーる社)」から抜粋

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2009年1月22日 (木)

信頼(2)

信頼は、自分自身を信頼することで初めて生じる。

自分自身の尊厳を信頼するとき、あなたは必ず尊厳を帯びるようになるだろう。

自分自身の愛を信頼するとき、あなたは必ず愛すべき者となるだろう。

自分自身の美しさを信頼するとき、あなたは必ず美しくなるだろう。

そして、自分自身の偉大さを信頼するとき、あなたは必ず偉大になるだろう。

以上「ヨーギバシ゛ャン 真理のひびき:平河出版社より」

 自分を信頼するということが、実は案外難しいのである。自分の中に嫌な面とか、嫌悪したくなる性格、行動パターンがあると、それをひたすら隠そうとして、少なくとも自分はそうではないと思い込んでしまう。その結果、自分の嫌な側面は他の、それとよく似た人にそのまま投影してしまい、あの人は厭だな、とか思ったりするのだ。

まず、ありのままの自分を好き嫌い抜きに見ようとすることがひとつ。

そして、それを見、理解することで、その嫌な側面は次第にはなれてゆく。

しかし、ありのままの自分を受け入れることも難しいのが私たちである。

少なくとも、自分に自信が持てなくて、必要以上に自分を過少評価し、卑下している人のほうが自己信頼への道のりは近いということもあるかもしれません。ただ、その道は苦痛に満ちている。そして、ありのままの自分を受け入れてゆく過程の苦痛がつらい道であり、だからこそ、そこを突き進んだとき、人は、また新しい成長した自分の姿をそこに発見していけるのである。

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2009年1月16日 (金)

学び(2)

 和尚は、その著書のなかで愚か者には3種類あるのだと云う。

その①単なる愚か者

なにも知らない上に自分が知らないことも知らない単なる愚か者。

その②学のある愚か者

知らないのだが、知っていると思っている愚か者、複雑な愚か者。

その③祝福された愚か者

自分がしらないことを知っている愚か者。

私たちの殆どは、この②の学のある愚か者に分類される。そして私たちが向かっている方向は

‥ まず知識に達し、罪を犯さねばならない。罪、知識、神ヘの不服従、そして世の中という荒野に下り、道に迷い、己の自我を生きてはじめてすべての知識を落とせるようになる。

‥ 祝福された愚か者は、理解に達する最も大きな可能性を持つ。なぜなら、知識は不毛であり、あらゆる知識は智への障害であると知るに至ったからだ。知識は智への障害だから、知識を落とし、ひたすら理解する人となる。まさに、物事がはっきり見えるようになるということだ。その目には理論も思考もない。そのマインドはもはやマインドではなく知性そのもの、純然たる知性、もうガラクタや借り物の知識は散乱していない。その人は、ひたすら気づいている人、気づきの炎だ。

 私たちは、知識人から、知性、英知ある人に向かわなければならない。知識を集めただけでは、知性は決して培われない。

‥ 知識とは、情報や体験を集め続け、分類、記憶し続けること。

  学びとは、何も集めず、ただ、起こっていることや起こるであろうことに対して、受け入れ態勢を整えておくことと、マインドが開いている状態にあることだ。

知識が増えれば増えるほど閉じていく。持っている知識が常に間に入り、それを避けられなくなるからだ。

 

私たちは、他人の意見を受け入れる時、それまでかき集めてきた知識の体系から、それに当てはめようとするか、拒絶しようとして、分析し、批判し、その意見を価値付けようとする。他人の意見を聞くということは、そうではなくて、相手の価値判断や、意見の背景にある動機や、欲求を想像して、相手の立場を推測しながら聞かないと、その真意は正しくつかむ事ができない。なぜなら、私たちはいつも、お互いのマインドというフィルターを介して、意見をし合い、議論しようとしているからだ。

環境や人から学ぶということは、言葉や意見よりもそれを包む全体像から理解するということなのだと思う。その人となりから、人を理解するというのは難しいけれど、少なくとも自分の心のフィルターを通して何かを学びえるということは決してない。

学ぶマインドとは、過去に邪魔されることなく注意深く聞こうとするもの、まさに開かれたもの、何であれ、ありのままに映す鏡のようなものだ。学び始めれば、智に達する。自分が何も知らないことをあなたが悟るうえで、智は役に立つ。真実を知るに至ったものは、己の無知に気づく。自分が知らないことを知る。この智における無知は、転換、変容、革命となる。

祝福された愚か者の状態に跳躍しなさい。私の祝福は、すべて祝福された愚か者たちに向けられる。

太字ー引用「死のアート:OSHO(市民出版社)

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2009年1月10日 (土)

学び

 自分は他の人より物知りだと思う時、謙虚さが失われる。

そこで、自分は自分より知識のある人からしか学ぼうとしなくなる。こういう過ちはいつでも起こりうる。

‥悟った人からしか学べないわけではない。あなたは、学ぶための知性と理解をもたなければならない。

‥‥もう一度言おうー この世で聖人が教えられないことを、あなたの敵が教えてくれる。あなたが明敏で、学ぶ知性を持っているなら、生のありとあらゆる石くれから、梯子を作ることができる。しかし無知な人々は、踏み石さえも障害物だと思い、立ち止まってしまう。あなたが知性的なら、どんな石でも踏み石にできる。あなたが知性的なら、あらゆる石が階段になり得る。

「ディヤン・スートラ(瞑想の道):OSHO(市民出版社)より」

 物知りということが知性的なのではないし、頭が良いとか、記憶力が良いということが知性というのでもない。自分の好き嫌いや、価値観の違いを超えて相手から何かを学び取ることができるかどうか? ということなのだろう。

 自分は悟ってはいない、苦悩する数ある群集の一人に過ぎない。そんな自分が自分の価値観で人を正当に評価などできるのだろうか?

 反面教師として、悪い手本としてみせてくれる人もいよう。

ただそれだけなのだろうか?

 その人にはそのひとなりの存在価値があるのではないだろうか?

 人間一人一人が持っている自我とは、断片的なものだ。だとしたなら、それぞれに長所があり、短所がある。短所とは、自分にないものをいう。その他に自我にはそのひとなりの経験に裏打ちされたクセがある。それぞれのクセは第三者にしかわからない。また、自分と似たようなクセのある人もいよう。それらは、客観的に眺めないと気付かないことが多い。どんな相手からでも必ず、見る目を養えば学べることがあるはずだ。

 人々は、お互いに相手に何かを気づかせてくれるきっかけを与えてくれている現実をみるとき、誰ひとりとして意味もなく生きている人はいないことを知る。

 あらゆる人から色んなことを学ぶことができる。

それはひとえに、自分の心がけ次第だ。しかし、そうした謙虚な意気込みも、いつしか忘れてしまう。そんなとき、いつも心の中に書き記しておきたい言葉がある。

 自我中心的な視点の考えは何であれ、間違いになる。私にとって善悪とは、一般とは異なった言外の意味を持つ。

 私にとって、その中心に自我のあるものはすべて悪であり、中心に自我を持たないものはすべて正しい。そしてあなたが宇宙とひとつにならないかぎり、自我が溶け去っていかないかぎり。正しい視点を持つことはできない。

「グレートチャレンジ:和尚(市民出版社)より」

 いつの世にも、悟った人はいる。そのひとをみつけたなら、真摯に彼の、彼女の言っていることに聞き耳を立てよう。そして私たちは、この自我中心の視点が消えないかぎり、お互いに学びあわねばならない有限な存在者なのだ。私たちが謙虚にならなければいけない理由はそこにある。その意味では、誰一人として有能ではないし、誰一人として無能でもない、そう‥ 賢者以外は‥ 。

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2009年1月 4日 (日)

女性の資質

 女性の資質はこの先、未来の人類にとって重要になる。

 戦争と平和を繰り返してきた歴史は男性主導の世界だ。今、自民党政権が疲弊し、世の中の目まぐるしい動きについてゆけなくなった。世界が変わろうとしているとき、必要なのは既成の概念などではない。異なるアプローチが必要だ。その時代にあって今、女性の資質が注目されている。

 愛、信頼、美しさ、誠実さ、正直さ、真正さー これらはすべて女性的な資質であり、それには男性がもっているどの資質よりも遙かに偉大だ。しかし、過去全体は男性によって、男性の資質によって支配されてきた。当然、戦争では愛は役に立たない。真理は役に立たない、美しさは役に立たない、美的感覚は役に立たない。戦争では、ただ憎しみが、怒りが。破壊しようとする狂気が必要なだけだ。

 三千年もの間、人間は五千もの戦争をしてきた。そう、これもまた強さではあるが、人類にとっては何の価値もない。これは私たちの、動物の遺産として受け継がれてきた強さだ。それは過去のものであり、去ったものだ。が、女性の資質は未来のものだ。それはやって来つつある。

 言うまでもないが、人は男性、女性に関わらず、自分のなかに異性の資質を備えている。

不思議なことに、肉体としての自分の衣服に合わせて、ひとは自分の中の男性性、女性性を開花させていくのだ。しかし、自分の身体の性と反対の性については、そこにいる異性を通して少しずつ意識的に目覚めてゆく。ひとは、心理的には両性の性を潜在可能性として持って生まれてくる。生まれてくる時は片側の性であるが、人間として成長するためにはこの両性の資質を兼ね備え、均衡をもたらし、統合する過程を歩まねばならない。そういう意味で私たちは、異性からより多くのことを学び、理解することを、意識しようとしまいと、この生を通して行なっているのだ。

 自分の女性の資質を喜び、あなたの女性の資質の詩を創りなさい。それは自然から受け継いだ、あなたの偉大な遺産だ。それを投げ捨ててはいけない。男性はそれをもっていないからだ。

 私は世界中が女性の資質で満たされることを望んでいる。そのときにのみ戦争がなくなる。そのときにのみ結婚がなくなる。そのときにのみ国家が消え去る。そうなってのみ私たちはひとつの世界、愛情豊かで、平和に満ち、静かで美しい世界をもつことができる。

太字「ニューウーマン誕生:バグワンシュリラジニーシ(ラジニーシ・エンタープライズ・ジャパン)刊行」より抜粋

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