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2008年12月

2008年12月27日 (土)

試練(4)

 この世の苦しみの最たるもののひとつに死というものがある。以前にも記しましたが、生かされているこの生が不確かなものであることは明らかです。そのなかにあって、人はお金や権力、地位や名声を得ようとする。そんな一連の野心を抱く自分に虚しいと思ったことはないだろうか?

 毎日死んでいく人がいる。それはひとごとではなく、自分が明日、生きていられるだろうか? と逆に問われているのだ。

と、なぜ考えないのだろう。それほど生は不確かなものなのだ。

特に大切なひとを失う悲しみ、これほど深いものはない。それでもこの生に何か意味はあるのだろうか? 人生に虚しさを感じ始めたときから、あなたは不確かでないもの、確実なものをみつけようとする。しかし、確実なものを見つけたい、そういった欲求さえも、自分自身が持つ痛みの原因であることになかなか気付けなかった。今でもその欲求は捨てきれない。

 欲求のあるところにマインドがある、自我がある。なぜマインドがあってはならないのか?  それはマインドが苦しみの根本原因であるからに他ならない。それは言葉での理解にとどまらず、いくつもの試練を乗り越えた時に、それは初めて実感できるもののように思う。

 束の間の幸せを追い求めたいのなら、それもいい。ただ、それに執着する心が、苦しみの原因であることに気づかなければ、人は永遠の泉の入り口にもたどりつけない‥

この世はすべて 束の間の砂で作った城

風に吹かれていずれ崩れ去ってしまう

 生のすべては‥‥ いかにして我が家へ帰るか、いかにして死ぬか、いかにして消えるかその訓練に他ならない。あなたが消えた途端、神があなたの中に現れるからだ。あなたの存在は神の不在であり、あなたの不在は神の存在なのだ。

「死のアート:OSHO」市民出版社刊から

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2008年12月23日 (火)

試練(3)

 自分が苦しい時、その原因には自分でこしらえた苦しみと、他人から押し付けられた苦しみがある。その多くは、これらの原因が積み重なった複合型だ。けれども、最初にすべきことは、自分からもう苦しみを作らないと決めることだ。本気でそれを決心するなら、物事は整理がついてくる。

 自然なものは何でも、静かに見守りなさい。そして、誰かに押し付けられた苦痛すべてに反逆しなさい。

 和尚は、苦しみには他人から押し付けられた痛みと、自然な痛みがあるという。

 「あなたの痛みのほとんどは、自分で選んだものだ‥」これは真実だ。あなたのあらゆる惨めさ、あなたのあらゆる痛み、  そのほとんどは他人から押し付けられたものではない。他人から押し付けられたものに対しては反逆しなさい。しかし、自分自身で選んだものは落としなさい。それを見守る必要はない。ただ、「自分で自分に押し付けている」という理解だけで十分だ。捨てなさい。見守るのは他人に任せればいい。あなたは捨てるのだ! それを捨てるあなたを見て、彼らもまた、理解するだろう。「なぜ不必要に苦しむことがある? 隣の人たちは彼らの深い悲しみを捨て去っている」と。

 なぜ、自分で自分に苦しみを科すのだろう?

過去の色々な行為や想いから、自分自身を責めてしまった。その結果、後悔と罪悪感にさいなまれたおのれの姿がそこにあるのではないか。ひとは誰しも少なからず過去の過ちに対して、意識しまいと罪悪感を持っている。それが自分を苦しめるような環境を生んでしまうことがある。 

誰かに苦しめられている時、そこには苦しめて欲しい、自分が苦しむのは仕方がないというもう一人の自分が隠れてはいないだろうか?

あなたの嫉妬心、あなたの怒り、あなたの貪欲ー これらはすべて痛みをもたらす。あなたのさまざまな野望、これらはすべて痛みをもたらす。そして、これは自分で選んだものだ。

 自分の所有欲、貪欲から生まれる痛みは微妙だ。それは自分の小さな心から生まれたものであるから、その願いが叶わないとなると自我はイライラしたり、怒り出す。それはあなたが自分の本心を、こうしたいということを相手にずっと伝えてこなかったストレスが溜まったものかもしれない。

また、自我が未熟でわがままな赤ん坊のように、周りを自分の思うように支配できると思いこんでいる我欲の人格支配によってもそれは起こる。

 あなたは既に怒っている。他人に怒りを表す前に、そのことで自分自身をすでに不快にさせてしまっている。その苦痛がある‥。それ自体がひとつの罰の表れでもある。

 自分の怒りにもっと冷静になろう。そして、それがどこから湧いて来るのか。他人が原因なのか、それとも、自分の欲が絡んでいるのか。

 自然な痛みは観ていなさい。静かに観ていなさい。なぜなら、それはあなたの内なる医者が、自然が、病気を癒すための苦い薬だからだ。

‥しかし、何が自然で、何が人工的なのか、はっきりとわかるようにしておきなさい。それに対して反抗できない自然なものであれば、現に在るものであれば、ーそうだとしたら、惨めにならないようにするがいい。そのときには、感謝をもってそれを受け容れなさい。それは、あなたを癒したいと望んでいる。あなたをもっと高い意識の段階に連れて行きたいと望んでいる。見えざる神の手だ。しかし、自然でないものであればーー どんな隷属状態に身を寄せようとも、それはあなた自身の魂を破壊することだ。奴隷として生きるくらいなら、死んだ方がましだ。

  以上太字「ニュー・ウーマン誕生:オショーエンタープライズジャパン㈱発売」より引用

 繰り返そう、苦しみの八割方は、自分で作りだしたものだ。あとの少しに対して、不当な不自然な、運悪く降りかかったものに対してはたとえ身が滅ぼうとも戦い抜く覚悟が必要だ。どちらにしても、自分が真生に生きるということに対して真摯になれということを、これらから読み取れるのです。

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2008年12月18日 (木)

試練(2)

世の中理不尽なことだらけだ。

どうして、優しくて良い人だと思える人にはつらいことが多く、のうのうと、何の苦労もしないで人生を幸せそうに生きている人たちが一方でいたりするのか?

生から逃げることは問題外だ生を試練と見なしなさい。そして、周りの人すべてが自分を助けてくれることを覚えておきなさい。

朝あなたを罵倒した人も、あなたを助けている。ー 彼はあなたに機会を与えてくれた。あなたが望むなら、自分の中に愛を見いだすことができる。

あなたに対して怒りを表す人も、あなたを助けている。批評する人も助けてくれている。あなたの全身に泥をはねかける人も、あなたを助けている。

あなたの道にいばらを敷く人も、あなたを助けている。

なぜなら、それもまた機会であり、試練だからだ。それを超えられたら、あなたは彼に恩義を感じるだろう。

この世で聖人が教えられないことを、あなたの敵が教えてくれる。

「ディヤン・スートラ 瞑想への道:市民出版社」OSHOより

 自分につらくあたる人、自分を苦しめる人、嫌いな人、自分にとって有益でない人が周りにいるということは、それだけ何かの理由があるのだろうか?

人生のどんな節目でも、自分を助けてもらった人の恩義は思い出すし、忘れはしない。しかし、自分に不快な思いをさせたひと、自分を死ぬほどつらい目に合わせた人に対しては恨みこそ残るものの、決して相手に感謝などしない。

周囲にあるすべての機会は自分にとって、それが良いことであれ悪いことであれ起こるべき出来事なのだろうか?  だとしたら、身に降りかかるどんな出来事もそれを試練として受け止めていかなければならない。人は、自分が納得しようとしまいと、試練となる出来事によって大きく成長する機会を与えられているのかもしれない。いいことばかりでは、人は決してその先の意識に目覚めることはないのだろう。

苦しいことがある、つらいことがある、それから逃げても、その状況はいつかまたやって来る。だったら、今、それを解決しないとならない。今解決できなかったら、神様はまた、別の形で同じ課題を自分に与えるのだろうか?

試練こそ、人が生きて学ぶことのできる最大のレッスンなのかもしれない。

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2008年12月14日 (日)

本質と実存(3)

この世にあなたを真の自己から引き離すことのできるようなものなど何ひとつない。この生に創造的に関わりなさい。あなたが味わう苦しみや歓びはすべてあなたの人生の物語だ。

  「ヨーギバシャン 真理のひびき:平河出版社」

あなたは最初からあなたであり、最初の前もあなたである。それはこの世界が誕生する以前に存在していたし、この世界が果てた後にも存在するであろう。それが真の自己というものだと思うのだが‥

この世に創造的に関わる、自分の人生を創造する喜びがある。自分の人生はひとつの演劇みたいなものだと、そう感じたことはないだろうか?

あなたは自分で思ったとおりの人間になってゆく。無意識な思い込みも、自分をそのような人間にしていくのだ。

カルマの法則を理解するに連れて、この世の物語性を考えるようになる。

賢者はよく言う、「あなたがたは自分で気づこうが気づくまいがそれぞれが神なのだ」と

その神であるあなたが、自分の人生の物語を創造するのはやぶさかではない。

創造する喜びを見つけ出したときから、あなたは自己の何たるかを知り始める。神の何たるかを思い始める。だが、それ以前ではない‥

あなたが味わう苦しみや歓びはすべてあなたの人生の物語だ。

それは自分の人生の物語だ。自分で作っておいてそれを忘れている。

人生は苦悩がベースだ。基本的な苦しみの上にさまざまなよろこびや楽しみがある。

なぜ苦しいのだろう、その原因を探り当てるとき、それは小さな自分、自我の苦しみ以外にないことを知る。

小さな自分から抜け出そう。本来の自分、真の自己を想う時、ひとは創造的になる。

創造的な自分の物語を作るところに、幸、不幸を超えた至福がある。苦しみも良いものだ、深く物事を考え、味わうことができるのだから…

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2008年12月 7日 (日)

本質と実存(2)

  イエスはニコモデにいう、「もう一度生まれてこないかぎり、あなたはわたしの神の王国に入ることはできない」。かれはなにをいっているのか? ニコモデはまず肉体として死なねばならないのか?

イエスはそれとは全面的に異なることをいっている。かれは自我として死ななければならない。かれは個人として死ななければならない。かれは過去として死ななければならない。かれは心として死ななければならない。

あなたは心として死んではじめて、存在として生まれる。

肉体として死ぬことは自明の理ですが、自我として死ぬとはどういうことか?

私たちは個人として生まれてきていますが、それは無意識の過去やまだ来ぬ未来への想いを引き連れた自我としてこの時間の世界に「個人」として生きています。それらをひっくるめて「心」といい、ある人はこれを「小さな心」「小我」とも言っています。そうしたこの「小さい我」、「われ」というものはこの世界で自分の望みや欲求を満たすために仮に存在しているのです。

だからイエスのいう「神の王国」も我執のない「こころ」「大我」「無我」といった状態でいるときしか入れないということです。それはわたしが、個人がということは関係ない。存在のあるべき状態として、「わたし」、という欲求の塊が抜け落ちた状態です。

東洋では、わたしたち覚者を二度生まれ、ドゥジャと呼んできた。ほかの人びとは一度生まれだが、覚者は二度生まれだ。生命という最初の贈り物は両親を通じて与えられるが、二度目の贈り物は、みずからの手で自分自身に与えなければならない

 さて、人は実在としてではなく、ひとつの機会、可能性として生まれると、紹介しました。その可能性、自分の本質を実現するためには自覚をもってみずからの生を選び取る必要があるとも述べました

 見逃している何百万もの人びと、かれらは選ばなかったがゆえに見逃している。かれらはただ待ち望んでいる。なにかが起こってくれるだろうと期待している。だが、そうやってものごとが起こったためしはない。なにか価値のあることがあなたに起こるためには、なにか本質的なことが起こってほしいと望むなら、あなたはその下地となる情況、空間をつくりださねばならない。

   以上、太字「ダンマパダ:永遠の真理」OSHO(めるくまーる社刊)

 私は「自分でちゃんと人生の選択をして生きている」と言い切れますか?

そう言いきれる人はそうはいない。もし、自己の責任において、人生の節目でちゃんと生き方を選択していると思っているなら、なぜ、生活状況の好転を政治家に頼ろうとするのですか? なぜ、困難な問題を、自分で解決できるかどうか考える前に誰からの助言に頼ろうとするのですか? 自分なりに悩んで下さい。そうして初めて解決の糸口の手助けも生きてくるというものです。

それと同じように、自分自身の価値というものは、人から評価されて確認され与えられるものではありません。仕事の成果、家事労働の評価といったことは、生活の必要からくる労働に対して行われるもののであって、その人自身の評価や価値ではありません。

では、その人自身の価値とは何か?

それはあなたが、あなたでいられるもの、あなた自身が創造し、他の誰かにとって変えられるものではないもの、他人の評価ではなく、あなた自身の内面の価値基準によるものです。

そうしたものを生きているうちに見つけることが重要なのです。でなければ、あなたはいつまでたっても自分自身を見失ったままの子羊で、この世界で単なる生きるために生きている生活者で終わってしまう。

生きるということは、まさに自分自身を創造することです。それは誰かのまねをすること、誰かに頼ることでは決して生まれません。私たちは、この世界でもう一度生まれ変わらなければならない存在なのです。遅かれ早かれ‥‥

 

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2008年12月 6日 (土)

試練

 私は何故、周りの人たちより不幸なんだろう、と考えたことはないだろうか?

今の自分が他の人たちよりもしあわせなのかどうか、そう考えること自体が自分が不幸なのだという証拠である。というよりも、自分が自分の人生と、誠実に向き合っていないということだ。

そもそも、しあわせかどうかなど、それは他人と比較するような事柄ではない。しかし、それでも私たちは他人のしあわせを気にし、他人と比較し、自分の今ある現実になんとか納得させたいのだ。

人が普通に考える幸せとは何だろう?

親の喜ぶ就職をして、適齢期になったら普通に結婚して、普通に子供が生まれて、普通に子供を育てて、普通に孫ができて、孫の世話をして、病気になったら家族が面倒をみてくれて、あまり苦しくならずに死んでいく‥

どうして、自分の幸福の指標を他人に求めるのだろう? 普通のしあわせなど決してあり得ない。

もし、私は他の人と違って不幸だ、どうして神様は私にばかりつらい思いをさせるのですか? と問うことがあったなら、それはあなたが自ら選びとった道ではないのですか?  と逆に問いたい。

普通のしあわせを選ぶひとはそれで満足していればいいのだ。しかし、この世界は何のためにあるのか、私は何のために生きているのか、たまには考えてみることだ。

 あの世で、自分が今度はものすごく成長した人生を送りたいと、自分でそう思ったとしよう。

そうしたら、神様はあなたに、「少し困難だけどいいかな?」 と問う。

するとあなたは答えて言う。「はい、いいです。構いません」

そして、この世にあなた出てきたとき、いつしか、つらい目に合い続けているうちに

あなたは言う「どうしてわたしにこんなつらいことばかり続くのですか?」

自分の生に向き合うことだ。そうしているうちに、他人のことは気にならなくなる。 他人のしていることに何故そんなに気にかかるのだろう。何故、自分のしていることに、他人の注目を集めたいのだろう? そこには自分の生き方に対する指針とは別の理由がある。

人に注目されたいとか認めてもらいたいとか、それが社会的であたり前な欲求というのは心理学書にも普通に書かれている。しかし、そこにとどまってはいけない。

あなたが、真にあなたの道を歩み始める時、あなたは他人のことが気にならなくなる。良い意味で、人の行動や言動に自分の幸、不幸を左右されにくくなってくる。

なぜ他人に注目されたいのですか? そういう気持ちがあなた自身を不自由にし、大衆に縛りつけてしまう。

なぜ私が和尚に惹かれているのか、そのわけをこのブログを借りて紹介していきたいと思っています。けれど、その意図は、私とともに大衆から、個人へ、不自由な泡のような存在から、結晶化した個人になりたいと少しでも、そう思うようになるひとが一人でも増えて欲しいからなのです。

自分に誠実に、そして謙虚に向き合っていくことが、人を自分自身に引き戻すために大切なことなのです。

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