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2008年12月 7日 (日)

本質と実存(2)

  イエスはニコモデにいう、「もう一度生まれてこないかぎり、あなたはわたしの神の王国に入ることはできない」。かれはなにをいっているのか? ニコモデはまず肉体として死なねばならないのか?

イエスはそれとは全面的に異なることをいっている。かれは自我として死ななければならない。かれは個人として死ななければならない。かれは過去として死ななければならない。かれは心として死ななければならない。

あなたは心として死んではじめて、存在として生まれる。

肉体として死ぬことは自明の理ですが、自我として死ぬとはどういうことか?

私たちは個人として生まれてきていますが、それは無意識の過去やまだ来ぬ未来への想いを引き連れた自我としてこの時間の世界に「個人」として生きています。それらをひっくるめて「心」といい、ある人はこれを「小さな心」「小我」とも言っています。そうしたこの「小さい我」、「われ」というものはこの世界で自分の望みや欲求を満たすために仮に存在しているのです。

だからイエスのいう「神の王国」も我執のない「こころ」「大我」「無我」といった状態でいるときしか入れないということです。それはわたしが、個人がということは関係ない。存在のあるべき状態として、「わたし」、という欲求の塊が抜け落ちた状態です。

東洋では、わたしたち覚者を二度生まれ、ドゥジャと呼んできた。ほかの人びとは一度生まれだが、覚者は二度生まれだ。生命という最初の贈り物は両親を通じて与えられるが、二度目の贈り物は、みずからの手で自分自身に与えなければならない

 さて、人は実在としてではなく、ひとつの機会、可能性として生まれると、紹介しました。その可能性、自分の本質を実現するためには自覚をもってみずからの生を選び取る必要があるとも述べました

 見逃している何百万もの人びと、かれらは選ばなかったがゆえに見逃している。かれらはただ待ち望んでいる。なにかが起こってくれるだろうと期待している。だが、そうやってものごとが起こったためしはない。なにか価値のあることがあなたに起こるためには、なにか本質的なことが起こってほしいと望むなら、あなたはその下地となる情況、空間をつくりださねばならない。

   以上、太字「ダンマパダ:永遠の真理」OSHO(めるくまーる社刊)

 私は「自分でちゃんと人生の選択をして生きている」と言い切れますか?

そう言いきれる人はそうはいない。もし、自己の責任において、人生の節目でちゃんと生き方を選択していると思っているなら、なぜ、生活状況の好転を政治家に頼ろうとするのですか? なぜ、困難な問題を、自分で解決できるかどうか考える前に誰からの助言に頼ろうとするのですか? 自分なりに悩んで下さい。そうして初めて解決の糸口の手助けも生きてくるというものです。

それと同じように、自分自身の価値というものは、人から評価されて確認され与えられるものではありません。仕事の成果、家事労働の評価といったことは、生活の必要からくる労働に対して行われるもののであって、その人自身の評価や価値ではありません。

では、その人自身の価値とは何か?

それはあなたが、あなたでいられるもの、あなた自身が創造し、他の誰かにとって変えられるものではないもの、他人の評価ではなく、あなた自身の内面の価値基準によるものです。

そうしたものを生きているうちに見つけることが重要なのです。でなければ、あなたはいつまでたっても自分自身を見失ったままの子羊で、この世界で単なる生きるために生きている生活者で終わってしまう。

生きるということは、まさに自分自身を創造することです。それは誰かのまねをすること、誰かに頼ることでは決して生まれません。私たちは、この世界でもう一度生まれ変わらなければならない存在なのです。遅かれ早かれ‥‥

 

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コメント

人生は、私にとって不思議に満ちている。
今では、一言では表現に尽し難いとしか思えない。
ただ、愛が私を困難にし、その愛が私を支え、
時に残酷なものとなった。
愛と人は、簡単に単純に軽く口にしてしまう。

私も以前は、そうだった。それは、永遠の愛でないものに対する、安易な愛だから。

責任と言う、無責任な
言葉に曖昧さを感じ。
神ではない、自己に責任という足枷が愛(安易な様な)になっていく、
まるでエンドレスゲームの様に。

母親が太陽であるべきと言う、安易な足枷に
私は、安易ゆえの愛の姿を感じます。

朝、東から太陽が登り
夕方には、西に沈む様に
、太陽の母親だけの不動な愛の形だけが、真実の愛だと、感応する力が、私にはない。

永遠の愛とは、いったい何か?
真実の愛とは、いったい何か?
無限の愛とは、いったい何か?

星が私に、感応する意味とは?
非力な愛ゆえに、私なりの愛になるのかしら?
と最近思う。

投稿: 非力な愛 | 2008年12月 7日 (日) 17時05分

追伸

神様は、
朝と昼と夜を作りました。
まるで、
光りと
混沌と
闇の様です。

人間の心も
もしかすると、
最大に大きく3つに分類されていると仮定した場合に

朝は明るの心=快活さ=明白さ=光り

昼は混沌=曖昧さ=不明瞭

夜は暗い心=疑心暗技=闇=黒い扉

全ての人に、多かれ少なかれ、備わる力かも知れないと感じます。

私の星は朝の星
私は、朝に生まれました。でも、晩秋に向かう朝です。

この悲しみの多い世の中に、悲しみの心で生まれ様です。

通年を通して明るかった私が、最近、闇に導かれ、暗くなりました。

花を見て美しいとは、感じ。しかし、太陽をみて、今では、輝かない私になりました。

まるで、生まれた時と、同様の悲しみに包まれているみたいです。

朝だから、闇を見ないと駄目だったのか?
と前向きに考えています。

闇は、人を愛せますか?
闇の人の愛は、真実なのでしょうか?

闇と朝が融合すると、
楽しい昼なのか?
それとも、ダークな扉の
曖昧でいい加減な心になるのか?

私に、闇の割合が多いくのしかかると、朝が遠く、来ないと感じてしまいます。

私を探し求め、いつも私を見つめていた愛は、
暗闇の愛の様です。

朝を待つ、悲しみの中で
その闇の人は、私の薔薇から、何かを奪っていってます。

投稿: 非力より追伸 | 2008年12月 7日 (日) 19時09分

今、本を書きながら、いや書かされていながら、冷静に感じる事があります。

愛は、狡猾であってはならない。

愛は、人を厳しく激しくと言う形の優しさの表現

もうひとつの愛は、静かに穏やかに見守り、幸せをひっそりと神に願う心

どちらも、愛の形だと言えます。

どちらにも美しさを感じます。

二つのバランスも大切です。

人間の欲望に嫌気がさして、ハートが冷えてしまう事もあります。
これも、ひとつの心の試練かも知れません。

しかし、本当に冷えているのでしょうか?

本当に冷めると言うのは、その気付きが全くない状態をさすと私は感じます。
寧ろ、人の欲望を気にする方が、私は病的に思います。

ただ、人間には感情があり神でないがゆえに、嘆き悲しみ苦しむ事があるんです。

人間の短所と長所は、相互的に人間を見ていくと、必ずと言って良い程に、互いに比率が違えども持った資質です。

私は、だから神様は
互いを愛していきなさいと、人々に伝えたかったのだろうと、考えました。
朝の星が、私に感応した瞬間に、私には未知なる真理を見せられた気がしました。

互いの欲望を寛容なハートで見つめていける人間である事が大切ですね

投稿: 非力から、蜂蜜とざくろと檸檬 | 2008年12月 8日 (月) 12時46分

困った事と言うよりも、自分では、愛に生きたつもり。

宵の明星も私に感応する。
人知を越えたと感じましたが、朝の星と日没の星の感応に対し。

昼が気になり出したの。

でも、昼は巨大なハートの雲を見たし

悪霊が嫌いなだけ。

自分がいたい場所がある。でも、ひとりぼっちで星が頼りみたいな女になった。

自分が生き生き出来る
オアシスは楽園とは言い切れない

昼はハートの雲だけが
マインドの支えであって
気になるけれど、人間が喧騒してて、神秘性に欠けると思う。

私は、宇宙の中の塵みたい。

静かに
静かに
静かに

私らしく…。

投稿: 蜂蜜とざくろと檸檬 | 2008年12月11日 (木) 00時21分

今さらながら、実に不可思議に思う事がある。

青春のまっさかり、
あの薔薇を秘めた場所に
挿した人は一体誰か?

一瞬にして目覚めた朝。
その白い手は、
清らかで偽りや欺きなど無いと思える。

その後、私の秘めた場所にも変化が訪れ、
薔薇の花の様な形となった。

その薔薇は、もう花開く事は永遠にない。

愛の花は、呪いによって絞んだ。
いや、それは閉じるべき時がきたのだと考えた。

私は神を信じたい。
信じていた、
または信じているつもり、ではなく信じたい。

神は、人を試すか?

町中の喧騒をかい間見ると、気付く事がある。

人は、神など深く気にしてなどいない。

いや、私よりも気にしていない様に思えてしまう。
朝焼けの中、天から神の声が降りた。
真綿の様な、あたたかな温もりで、私の全身を包み込んだ。

声なき声だ。
天から降りた。
青空だった。

それは、愛という優しくあたたかな空気だった。

神だと信じている。
それは見ている、本当の全てを見ていると感じた。
この地球の全ての人を確実に理解する、大いなる沈黙と光りのパワー。

囁きではなく、誘惑でもない。
呪いもなく、暗示悪夢でもない。

痛みもなく、まさに
真実の愛にふさわしい
何かだと思う。

見ている、その力は
全てを確実に把握し、
記録し知り尽している。

何故?私に降りて下さったのか?

太股の愛の証しが真実なのか?

真実の愛という、
大いなる愛に、
その沈黙に…。

完全なるままに。

人間は、完全には
なかなかなれない。
人間なのだから

投稿: ざくろと蜂蜜と檸檬 | 2008年12月13日 (土) 08時05分

非力さま
朝と昼と夜の区別は、単に人間の感情の状態を区別したものではないのでしょうか?
そもそも、人が闇の状態にあるというのは、単に目をしっかりあけていないということに他なりません。むしろ、目の開け方がわかっていないということです。無明とは良くいいますが、人間は無知であるがために、それを反映した世界が見えてしまうものです。基本的に人は光輝く存在であって、ただそれを映す鏡が曇っているのだけなのです。人間という形態も一種の鏡であり、ものごとをありのままに映していないということでは、不完全であるといえましょう。
次に愛については、記事でいくつか書いていますが、あなたは誰かから太陽のような無償の愛を求められているのですか? だとしたら、それは苦痛ですね。また、その苦痛の原因はその相手のことを心から愛していないということの裏返しにもなるでしょう。人間が他人に対して無償の愛を示せるのは心から愛しているときだけです。
また、愛とは花の香りのように漂っているものであり、そばを通り過ぎる人にも香りを楽しむことのできるものです。誰かにだけ与えようとする愛とは区別しなくてはなりません。
あなたが愛を注ぐということに義務を感じるのであれば、それは太陽のような暖かな愛情とは程遠いものです。

投稿: 翼猫 | 2008年12月14日 (日) 06時24分

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