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2008年11月 8日 (土)

快適さの陰で

 豊かな暮らしに慣れてしまった日本。豊かさはしかしながら、必ずしも幸福を得ない。

その理由の一つに人間関係が、希薄であるということが挙げられる。私たちは、例えばネット上でも匿名で、誰かと友達になった気分でいる。その気分で色々な会話や言葉のやりとりを行っている。しかし、その多くは、心にどうしようもない寂しさを抱えている場合がある。ネット上では近しい人に言えないことでも、書くことで気持ちが落ち着く‥。

情報が交錯するだけに、ひとは自分の心の暗闇をかえって見えにくくしてもいないだろうか?

 人と人との関係はビジネスライクな関係である。それは現代に限ったことではない。自分の欲求からしか関わろうとしない人たち、いつも相手に期待し、相手にとってどうだろうかと、考えることができない人たち、自分の嗜好する世界に閉じこもっている人たちは決して少数派ではあり得ない。また、電化製品が修理も出さずになんでも取り換えしてしまう今までの傾向が、生き物にまで及んでしまった。自分にとって相手とは、どう利用可能かという観点から先にみる傾向を実利的な傾向という。

 実利的な心が心全体だと思わないこと。その残りのより大きな部分‥、心全体がそのために犠牲にされるようなことがあってはならない。実利的な心を目的にしないこと。それはそこに当然とどまることになる。が、あくまでもひとつの手段としてだ。もう一方の、つまり残りのより大きな部分、可能性を潜在させた部分が目的になるのがほんとうだ。それこそ私が宗教的アプローチと呼ぶものなのだ。

 非宗教的なアプローチでは、実務的な心(実利的な心)が目的になる。これが目的になったら、無意識がその潜在する可能性を実現する機会はなくなる。無意識の部分は否定される。実利的なものが目的になると、それは召使いが主人役を演じることになる。

 現代はこの実利的な心が、自分の欲求を満たすために、または目的を果たすために、相手を手段として利用しあうといった関係で生きている。そして、実利的な心同士の結びつきほどほどけやすいものはない。

すると、心のどこかで寂しいすきま風が吹いてくる。

 無意識の可能性とは何だろう? それこそが自分が真に自分らしくあるという可能性、寂しさを紛らわすのではなく、解消することのできる存在への覚醒領域である。

 知性、つまり心を狭めることは生きながらえるための手段ではあるが、生のための手段ではない。生存と<生>はちがう。生存は欠くべからざるもの、物質的な世界に生存することは必要なことだ。しかし、目的は常に潜在的可能性の開花、あなたという存在によってもたらされた可能性のすべての開花にゆき着く。あなたが完全に満たされていたなら、内にどんなものも種の形で残っていなかったら、何もかもが実現していたなら、もしあなたがひとつの開花であったなら、そのときには、いやそのときこそはじめてあなたは<生>の至福を、エクスタシーを感じることができる。

太字ー 引用 : 「瞑想 祝祭の芸術バグワン・シュリ・ラジニーシ(めるくまーる社)」

 相手や自分をどんなにより豊かに快適な生活のために利用しようとも、それだけではひとは決して幸せにはなれない。どんな合理的な生き方も、自分の本音の前には無力だ。

 その無意識な自分の声に誠実でいよう。たとえそれがどんなものでも、それを受け入れなければ一歩たりとも前には進めない。自分がいまいる場所を現実として受け入れることで、障害となっていたブロックが取り除かれ、目の前が少し開けてくる。そう、人は好むと好まないに関わらず、より意識的にならずにはいられないのだ。

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