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2008年11月

2008年11月30日 (日)

本質と実存(1)

 先日、人間はそれぞれ自分の花を咲かせるために存在しているかのように述べました。だとすると、それぞれが自分の花を咲かせるための種を持っていることになる。これが、ひとの本質的な部分だと書いた。この本質は生まれつきのものだろうか?

世界の哲学にはふたつの大きな潮流がある。一方は人間が本質として生まれてくることを信じる。かれらは<本質主義者>だ。人間は完成された状態で生まれてくる、とかれらはいう。それらはあらゆる運命論者たちの考え方と同じだ。

 もう一方の学派は、みずからを<実存主義者>と名乗っている。かれらは人間は<本質>として生まれるのではなく、ただ<実存>として生まれてくるのだという。だが、そのちがいはどこにあるのだろう? 一方は、本質はあらかじめ決定されているという。あなたはそれを自分の生とともに持ってくる。青写真として携えてくる。あとはそれを展開すればいいだけだ。あなたはすでにできあがっている。

 もう一方の学派は、人間はただ<実存>として生まれてくるのだと信ずる。本質が創造されなければならない。本質はあらかじめあるのではない。あなたは自分自身を創造しなければならない。あなたは成るための、在るための方法と手段を見いださねばならない。あなたは、みずからの<存在>を生み出すための子宮にならねばならない。あなたは自分自身を誕生させねばならない。肉体の誕生は真の誕生ではない。あなたはもう一度生まれなければならない。

    「ダンマパダ 永遠の真理:和尚」めるくまーる社より抜粋

 実存という言葉の意味するものは、人はひとつの機会、可能性として生まれてくるということです。和尚によれば、人間は真の意味において存在<Being>となっていない、自分が何者なのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのかわかっていない。

 人がみずからの存在をみいだすことはごくまれだ。みずからの存在、本質を見いだすとき、人は覚者となる。

 しかし、その前提条件になるのは、自覚をもって自らの生を選び取るということだ。あなたはどちらにしても選ばねばならない。自覚をもって選ぶか否かは問題ではない。とにかく選択せざるをえない。選びたくなくても選ばねばならないという意味ではあなたは自由ではない。

 ひとはこの世に肉体を授かった。親に一度は、どうして私を生んだの? と言ったことはないだろうか。私は生まれてこなければ良かった、と思ったときはないだろうか?

自分が生まれてきた理由は自分が作ったくせに、そのことを忘れてしまっている。そういう意味では私たちは愚かな凡人である。私たちは自らの人生の責任者であり、自らの創造者であることを忘れてしまった‥。生の苦しみは、ひとえにこの自分自身がどこから来て、どこへ行こうとしているのか、なぜ私は生まれてきたのか、その理由を自分で作ったその理由を忘れたところからくる。

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2008年11月21日 (金)

尊敬と畏敬(2)

「シャワリングウイズアウトクラウズ:和尚」(市民出版社)より続く

 だから、畏敬と尊敬は大きく異なる。このことを理解しなさいー 尊敬とは嫉妬の入り混じった畏敬であり、畏敬は嫉妬が含まれない尊敬だ。では、畏敬とは何だろう? あなたは、その人の中に自分の本性のこだまを観ると、その人に畏敬の念を抱く。また、その人の名から自分の野心の成就を見ると、その人を尊敬する。‥

‥そして、その人の中に自分の本性ー 野心ではなく、あなたの本性が映し出されるのを観ると、あなたはその人に畏敬の念を抱く。その人はあなたの鏡になってくれる人、本来のあなたを見せてくれる人、あなたの本性を教えてくれる人だ。

 野心はいつか達成できるものだ。あなたは、あなたの将来がいま起こっている人を尊敬する。それはまだあなたに起こっていないから、そこには痛みもある。彼にはそれが起こっている。だから、嫉妬と尊敬は共存するのだ。

 本性とは何だろう? たびたびあなたの本性というが、それは自分の本質的な部分、実存的な存在の核を意味する。尊敬が、その人をして未来の自分の姿を夢見ることが可能なのに対して、畏敬は取り換え不可能な資質に対して言っている。

 畏敬とは、あなたから奪い取ったものではないものを、私が持っているということだ。‥畏敬の念は、学ぶことはできても剥奪できないものを持っているひとに対して湧き起こるものだ。

と、和尚が言うとき、何をその人から学べるのだろう。

畏敬する人が本来のあなたを見せてくれる人、あなたの本性を教えてくれる人であるというのは、その人が自分の持っている種から花を咲かせたように、その花の芳香があなたに、あなた自身の持っている種の花を咲かせるようにと促しているかのように私には思われた。

 人は、自分の手足で、自分の力で生きているように思っていると、錯覚することもあるけれど、私たちは生かされている存在なのだ。誰に? 本来の内なる自分に、本来の存在の神に‥

狭い自分の殻に閉じこもってしまったら、生き方を間違えてさまよい始めたら、それまでの他人の意見や自分の凝り固まった考え方を一度手放してみよう。

「‥まず本性を正しく知るがいい。そしてその理解を通して、神が望むことを起こらしめるのだ。神は、君が本性から行動することを望んでいる。そして、ただの乗り物になるがいい(和尚)」

 

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2008年11月18日 (火)

尊敬と畏敬(1)

 以下は、女性の覚者、サハジョについて講話の際に、サニヤシンから受けた質問の答えから抜粋したものです。

 質問者:「‥私は あなたを途方もなく尊敬しているのに、嫉妬がそれに毒を注いでいます。私は自己嫌悪と苦悩を体験しています。畏敬の念は、この毒のある尊敬を超越するのでしょうか?」

人を尊敬するときは常に、自分にないものをその人に見るが故に尊敬する。

自分もそうなりたいものを、その人の中に見るから尊敬するのだ。

乞食は皇帝を尊敬する。それは自分が皇帝になりたいからだ。だから一方で尊敬しつつ、もう一方で自分がまだ皇帝ではないから嫉妬を覚える。彼は皇帝になりたい。皇帝は、乞食が成し遂げたいと思うものを達成している。つまり乞食は、皇帝が成功したから皇帝を尊敬するのだ。「俺は列のずっと後ろに立っている。あなたは俺が行きたい場所に辿り着いている。権力を持ち、知的で、賢明で、力強い。だから俺は、あなたを尊敬するんだ」。だが、内側では嫉妬の炎も燃えている。「もしチャンスを手にしたら、俺はあんたの場所に居たい。あんたを追い払いたい」。そしてこの乞食がチャンスを手にしたら、彼は皇帝を排斥し、追い出し、王座に座るだろう。

 だから、尊敬の中には嫉妬が隠れている。まったく考えたこともなかっただろう。あなたは、尊敬は偉大な質だと思っている。尊敬は嫉妬のひとつの側面だ。あなたは尊敬の背後に、隠された嫉妬を抱いている。‥(続)

              「シャワリングウィズアウトクラウズ:OSHO」(市民出版社刊)

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2008年11月14日 (金)

忠告

 あなたの忠告がしっくりくる人たちだけに忠告しなさい。猿には決して忠告しないこと。さもないと、猿はあなたの家をめちゃめちゃにしてしまうだろう。

敵をつくりたくなかったら、けっして誰にも忠告などしないことだ。

                          「真理のひびき:平河出版社」

 人に対して、忠告するときは、まず、相手に聞き入れる耳があるかどうか、猿には忠告してはいけない。というのは相手に聞く用意がない場合という意味だ。これは特に相手の短所を指摘する場合、お互いの関係が親密なものかどうかがカギとなる。したがって私たちがいつもよく犯す過ちは、相手と親しくもないのに、相手のことをよく知りもしないで忠告したがる傾向にある。忠告が外れれば恨みを買うし、当たっていれば逆に逆恨みをかわれてしまい、どの道良いことはひとつもない。

 相手のことを想って言っていると、自分は思うのだが、そういう自分はいったい何さまのつもりなのか? そもそも相手と親しく関われば関わるほど、適切な忠告をしようと思えばためらってしまうものである。

 ものごとは単純ではない、ひと一人ひとりにそれぞれの歴史がある。その場から適切な助言を相手に示すことは、優越感の強さにに応じて難しくなる。

 相手の心の流れとひとつになれれば、そのとき適切な忠告が示される。しかしそれは、本当に相手の懐に入っているときだけなのだ。だから、よっぽどでないと、忠告はしてはいけない、ではなく自分が謙虚になればなるほどできないのだ。

その人と共につぶれてしまうのも厭わない覚悟があれば、その忠告はより的を得たものになるだろう。それこそ、敵も味方に変えるだけの力強さがそこにはある。

 

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2008年11月 8日 (土)

快適さの陰で

 豊かな暮らしに慣れてしまった日本。豊かさはしかしながら、必ずしも幸福を得ない。

その理由の一つに人間関係が、希薄であるということが挙げられる。私たちは、例えばネット上でも匿名で、誰かと友達になった気分でいる。その気分で色々な会話や言葉のやりとりを行っている。しかし、その多くは、心にどうしようもない寂しさを抱えている場合がある。ネット上では近しい人に言えないことでも、書くことで気持ちが落ち着く‥。

情報が交錯するだけに、ひとは自分の心の暗闇をかえって見えにくくしてもいないだろうか?

 人と人との関係はビジネスライクな関係である。それは現代に限ったことではない。自分の欲求からしか関わろうとしない人たち、いつも相手に期待し、相手にとってどうだろうかと、考えることができない人たち、自分の嗜好する世界に閉じこもっている人たちは決して少数派ではあり得ない。また、電化製品が修理も出さずになんでも取り換えしてしまう今までの傾向が、生き物にまで及んでしまった。自分にとって相手とは、どう利用可能かという観点から先にみる傾向を実利的な傾向という。

 実利的な心が心全体だと思わないこと。その残りのより大きな部分‥、心全体がそのために犠牲にされるようなことがあってはならない。実利的な心を目的にしないこと。それはそこに当然とどまることになる。が、あくまでもひとつの手段としてだ。もう一方の、つまり残りのより大きな部分、可能性を潜在させた部分が目的になるのがほんとうだ。それこそ私が宗教的アプローチと呼ぶものなのだ。

 非宗教的なアプローチでは、実務的な心(実利的な心)が目的になる。これが目的になったら、無意識がその潜在する可能性を実現する機会はなくなる。無意識の部分は否定される。実利的なものが目的になると、それは召使いが主人役を演じることになる。

 現代はこの実利的な心が、自分の欲求を満たすために、または目的を果たすために、相手を手段として利用しあうといった関係で生きている。そして、実利的な心同士の結びつきほどほどけやすいものはない。

すると、心のどこかで寂しいすきま風が吹いてくる。

 無意識の可能性とは何だろう? それこそが自分が真に自分らしくあるという可能性、寂しさを紛らわすのではなく、解消することのできる存在への覚醒領域である。

 知性、つまり心を狭めることは生きながらえるための手段ではあるが、生のための手段ではない。生存と<生>はちがう。生存は欠くべからざるもの、物質的な世界に生存することは必要なことだ。しかし、目的は常に潜在的可能性の開花、あなたという存在によってもたらされた可能性のすべての開花にゆき着く。あなたが完全に満たされていたなら、内にどんなものも種の形で残っていなかったら、何もかもが実現していたなら、もしあなたがひとつの開花であったなら、そのときには、いやそのときこそはじめてあなたは<生>の至福を、エクスタシーを感じることができる。

太字ー 引用 : 「瞑想 祝祭の芸術バグワン・シュリ・ラジニーシ(めるくまーる社)」

 相手や自分をどんなにより豊かに快適な生活のために利用しようとも、それだけではひとは決して幸せにはなれない。どんな合理的な生き方も、自分の本音の前には無力だ。

 その無意識な自分の声に誠実でいよう。たとえそれがどんなものでも、それを受け入れなければ一歩たりとも前には進めない。自分がいまいる場所を現実として受け入れることで、障害となっていたブロックが取り除かれ、目の前が少し開けてくる。そう、人は好むと好まないに関わらず、より意識的にならずにはいられないのだ。

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2008年11月 5日 (水)

見ること(3)

「シャワリング ウィズアウト クラウズOSHO」から続く

 あなたに消え去る用意ができたとき、もう一方にも消え去る用意ができる。あなたの用意が、もう一方のこだまを整える。

消え去る用意など、私たちには到底できない。けれど、自分の心の整理がついたとき、周りの環境も落ち着いてくるといったことは経験したことはないだろうか。

ちょうど、ふたつの雫がどんどん近づき、消え去る用意ができるようにー それらはお互いに溶け入り、ひとつの雫になる。ひとつの雫になるすべは愛だ。この愛を知る者は、神を知る。

 だが、そうなると彼は困ってしまう。「神はどこにいる? 」と尋ねると、彼は「俗世はどこにある?」と尋ねるだろみなう。これが幻の意味だ。あなたが「神は見えない」と言うと、彼は「目に見えるものはみな神だ。それ以外はみな幻だー 神だけが存在する」と言う。

愛を通して知られる世界が神だ。愛なくして知られる神が俗世だ。これらがあなたの見方だ。

私たちは、世界に俗なるものと、聖なるものとの両方を見る能力がある。それぞれの見方に応じて、世界は色を変えていく。覚醒した意識と無意識、この中間に居るのが私たちだ。あれもこれもと目移りせず、一つのものに意識を定めて見つめてみよう。それだけで、世界の理解や認識が深まってくることがあるものだ。

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2008年11月 2日 (日)

見ること(2)

「シャワリング ウィズアウト クラウズ:OSHO(市民出版社)」より

  究極の見ることは、いつ起こるのだろう? なぜ愛は、究極の"見ること"と呼ばれるのだろう? なぜか? それは愛の瞬間、見つめる人と見つめられるものがひとつになるからだ。愛の真の意味は、あなたとあなたの見ているものは別でないということだ。あなたは開いており、あなたは近くにいて、あなたが見ているものにたいして心を開いている。あなたが見ているものは、あなたの愛しい人であり、見知らぬ人ではない。あなたは彼のことを別人ではなく、自分の延長だと思うー あなたは彼とひとつだ。

愛とは、あなたがあなたの見ている人とひとつであり、分かれていないという意味だ。

あなたのハートと彼のハートは共に鼓動し、あなたの呼吸と彼の呼吸は同じリズムで動く。あなたの実存と彼の実存の間に壁はない。これこそ愛の真の意味だー 

あらゆる壁が消え去った。そして、見つめる人は、見つめられる人になった‥‥

 あなたは花を見る。花は向こうにあり、あなたはここにいる。ゆっくりゆっくり、花の体験だけが残るまで、両者は消え去っていく必要がある。体験する者も花も残ってはいない。ただ、両者の間に流れる体験だけが残るべきだ。観察者も被観察者も消え去る地点で、ダルシャンが起こる。

 和尚という人は、イエスキリストに劣らず、愛の伝道者でなかったかと思う。和尚は私たちが、目が覚めるまで何度でも同じことを別の角度から、叩き続ける。その要点は、私たちは全体の一部であり、それぞれに離れてはいないということだ。

 愛は至高なるものだ。愛を通る以外に、それを知るすべはない。生のもっとも貴重な瞬間は、愛の影として訪れるー そのことに思いを馳せたことはないかね? 見つめたことはないかね? 味わったことは、知ったことはないかね? あなたは。自分の愛する人のことしか知らない。どんなに懸命に試みても、愛していない人については、そのまわりをぐるぐる回り続けるばかりだー 人々が寺院のまわりをぐるぐる回るように、それは表面的でしかない。あなたは外側ばかりうろついて、内側に入ることができない。というのも内側に入る可能性は、自らが喜んで愛の中に溺れ、溶け去るのを望んだときにはじめて生まれるからだ。

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