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2008年11月 2日 (日)

見ること(2)

「シャワリング ウィズアウト クラウズ:OSHO(市民出版社)」より

  究極の見ることは、いつ起こるのだろう? なぜ愛は、究極の"見ること"と呼ばれるのだろう? なぜか? それは愛の瞬間、見つめる人と見つめられるものがひとつになるからだ。愛の真の意味は、あなたとあなたの見ているものは別でないということだ。あなたは開いており、あなたは近くにいて、あなたが見ているものにたいして心を開いている。あなたが見ているものは、あなたの愛しい人であり、見知らぬ人ではない。あなたは彼のことを別人ではなく、自分の延長だと思うー あなたは彼とひとつだ。

愛とは、あなたがあなたの見ている人とひとつであり、分かれていないという意味だ。

あなたのハートと彼のハートは共に鼓動し、あなたの呼吸と彼の呼吸は同じリズムで動く。あなたの実存と彼の実存の間に壁はない。これこそ愛の真の意味だー 

あらゆる壁が消え去った。そして、見つめる人は、見つめられる人になった‥‥

 あなたは花を見る。花は向こうにあり、あなたはここにいる。ゆっくりゆっくり、花の体験だけが残るまで、両者は消え去っていく必要がある。体験する者も花も残ってはいない。ただ、両者の間に流れる体験だけが残るべきだ。観察者も被観察者も消え去る地点で、ダルシャンが起こる。

 和尚という人は、イエスキリストに劣らず、愛の伝道者でなかったかと思う。和尚は私たちが、目が覚めるまで何度でも同じことを別の角度から、叩き続ける。その要点は、私たちは全体の一部であり、それぞれに離れてはいないということだ。

 愛は至高なるものだ。愛を通る以外に、それを知るすべはない。生のもっとも貴重な瞬間は、愛の影として訪れるー そのことに思いを馳せたことはないかね? 見つめたことはないかね? 味わったことは、知ったことはないかね? あなたは。自分の愛する人のことしか知らない。どんなに懸命に試みても、愛していない人については、そのまわりをぐるぐる回り続けるばかりだー 人々が寺院のまわりをぐるぐる回るように、それは表面的でしかない。あなたは外側ばかりうろついて、内側に入ることができない。というのも内側に入る可能性は、自らが喜んで愛の中に溺れ、溶け去るのを望んだときにはじめて生まれるからだ。

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