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2008年10月

2008年10月29日 (水)

見ること(1)

見ることとは、愛すること、愛の中でひとつに溶けあうことをいう。

我々はひと時も休むことなく絶えず何らかの思考を通してものを見ている。この習慣のせいで、純粋に見ること、そのものに徹することができなくなっている。

 インドにおいて、形而上学はダルシャンー 見ることと呼ばれている。西洋では「哲学」という言葉を使う。「哲学は」ダルシャンほど価値ある言葉ではない。「哲学」とは考えること、黙考することであり、見ることではない。哲学とは生について考えること、黙考し結論を出すという意味だ。ダルシャンとは、考えることや結論づけることは、いずれも真理ではあり得ないという意味だ。なぜなら、あなたの結論、あなたの思考には、あなたが含まれるからだ。あなたの定義は、あなたの定義だ。

言葉を持ち込まず、ただ直接見るがいい。

 私たちが見ている世界、いわゆる俗世は人それぞれの世界である。それぞれが自分なりに認識した世界を映し出している。その意味では、共通認識している世界というのは存在しない。物理的に同じものを見ているではないか、と言えそうだが、それを見ているひとそれぞれの心を通して見ているから、厳密に同じとは言えない。マインドという心を通してみているからそれは、真実ではあり得ない。

 シャンカラは「俗世は幻だ」と言う。しかしそれは、俗世は存在しないという意味ではない。それは、あなたが現実を正しく見ていないから、物事がありのままに見えないという意味に他ならない。あなたの認識は誤りであり、この「俗世」はあなたの認識だ。それは真理に対するあなたの投影だ。

あなたは真理を知らない。ただそれを定義するだけだ。そして、あなたの定義は誤りだ。「俗世」とは、無知な人間によるブラフマン、すなわち究極の真実の定義だ。

 「私たちは真理を知らない」、ということを常に謙虚に受け止めていないといけない。

 そして、気づきを持って目を開き、そこから愛の潮流が流れ出るとき、あなたはこの同じ世界を違った角度から、違った視点から見るだろう。すると異なる様相が現れ、あなたの定義はすっかり変わる。そのときあなたは、「これまで見ていたものは誤りだった」と言うことができる。なぜなら、このさらに広大な真実に直面すると、あなたの見ていたものは無意味になるからだ。そのときあなたは、「これまで見ていたものは、どれも間違いだった。この新しい展望が、それを帳消しにした」と言うだろう。

あなたの見ること決め手となる。‥

以上、太字: シャワリング ウィズアウト クラウズ OSHO(市民出版社)から引用

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2008年10月25日 (土)

生きる意味(4)

生について、その目的を考えることは、方向を見出す助けになるー 川を漂う木片のように生きるべきか、風が運び去るままに吹き飛ばされていく枯れ葉のように生きるべきか。それとも一個人として、一人の考える人間として、生における指針を持ち、なりたいものとなるべきものを決意し、自らの生とその展開を手中に収めた者になるべきなのか。

人間のもっとも偉大な創造物は自分自身だー 人間のもっとも偉大な創造は自己実現だ。それ以外に人が創造するものにさほど価値はない。それは水に線を描くようなものだ。

しかし人間が内側に作り出すもの、自分自身を生み出すことは、石を彫るのに似ているー それは決して消え去ることなく、永遠に自分自身とともにある。

「ディヤン・スートラOSHO:市民出版社から」

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2008年10月21日 (火)

自己(2)

「ヨーギ・バジャン 真理の響き」平河出版社より

 あなたは、三つの<自己>をもっているということを理解しなければならない。

ひとつは肉体であり、それには欲望がつきものである。

もうひとつは精神であり、それには想念がつきものである。

そして、最後のひとつはあなた、自分をコントロールするむちをもったあなただ。

ほとんどの人たちは精神と自己とは別物であるということを知らない。精神的自己とより高次の自己とは別個のものだ。これら三つの自己のあいだの内的な闘いを認識できなかったら、あなたはまったく何も知らないことになる。しかし、だんだんあなたはこの内的な葛藤に気づき、高次の自己が勝利をおさめるようにこれを克服できるだろう。

‥‥

 悟りは私たち自身の魂を通して起こる。肉体として形づくられた自分のなかに存在する真の<自己>を悟ることこそ、最大の偉業だ。

 さて、<高次の自己><真の自己>といったものは、インドの古代経典ウパニシャッドでいうところの真我ともいい、アートマンともいう。個人が目指す個々の真我が存在する。言い換えるなら、自分たちが真に誰なのか? と問うところの根源には肉体としての自分を影として従える真我としての自己が居る。

私たちは、この日常生活に埋もれてしまって、忘れてしまった永遠の自己を、訪ね歩く旅人のようなものだ。

よく使われている<ハイヤーセルフ>といった言葉も、<高次の自己>とほぼ同じ意味合いで使われることが多い。しかし、その場合、アートマンとしての真我とは趣が違ってくる。ハイヤーセルフは、同じ自己でも、経験を積んだ霊集団、或いは同一個人のさまざまな時空に現れる指導霊的意味合いを持つ。

アートマンとしての真我はそれよりも深みを持った時空の超越的存在としての位置づけがなされている。しかし、旅は真我の段階では終わらないのだが‥‥

いずれにせよ、まず私たちは肉体としての自分が全てではないという認識を現実のものとしなければならない。その一歩が永遠の泉の扉となる‥。

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2008年10月16日 (木)

生きる意味(3)

前著「死のアート:和尚(市民出版社)」から

 あなたの生の意味をあなたに教えられる人はいない。それはあなたの生だ。その意味もあなた自身のものでなくてはならない。ヒマラヤに行っても無駄。あなた以外にそれと出会う者はない。それはあなたの生だ。あなた以外に近づける者はない。生きることによってのみ、その秘密は明かされるだろう。

 私たちは、お互いのことを理解したつもりでいること、説明して、分かり合えたと思うことが、実はわかっていないことの方が多い。人それぞれ顔が違うように生きる目的も違う。といっても、帰ってゆく道のりが違うだけなのだが‥。

 それぞれが自分自身にいきつかねばならない。第一に目的地が違えば行き方も違うはず、一人ひとりの生き方の違いはそれぞれが目指すものが違うということ。

 最初に言っておきたいのは、生の意味を自分以外のところに求めてはならないということだ。私に求めないこと。聖典や巧みな言説にも求めないことー それらは言葉巧みに説明するが、本当の説明にはならない。あなたの空っぽの頭を満たすだけで、存在するものを気づかせはしない。頭に死んだ知識が詰まれば詰まるほど、鈍感で愚かになる。知識は人を豊かにし、感覚を鈍くする。詰め込まれると重荷になる。自我を強くはしても、人に光を与えたり道を示したりはしない。それは不可能だ。

  第二に、人は自分自身の気づきを待たねばならないということ。気づきは自らの光を礎にするということ、その自らの光が照らし出すように意識的になることが必要です。ここで、何に意識を向けるかで、気づきの方向性ができる。そして、人は心から求めるものしか受け入れない。他人の忠告はそのなかから、自分がその時に心から求めるものにだけ感応する。だから、本当に求めるものは、周りの環境を通して与えられる。

それゆえに人は外の指導者のアドバイスを手がかりに自らの指導者に行きつかねばならないということ。きっかけは外から与えられるが、求める者は自分自身の中にあるのだということ。自分が求めてもいない知識に一杯になったら、そこには偽りの自分、肥えた自我しか存在しない。

 生はすでに、あなたの内側で湧きあがっている。そこでしか、生に触れることはできない。寺院は外にはない。あなたが聖地だ。生の何たるかを知りたければ、何よりもまず、覚えておくべきことがある。決して外に求めない。他人から答えを引き出そうとしないということだ。生の意味を他人が明かすことはできない。極めて偉大な師たちは、決して生の意味を口にせず、いつもその人自身に生の意味を投げ返した。

 例えば、人が愚かだと自分が思う行為を説得して止めることはできない。その人自身の愚かな行為を通じてしか、その人自身の気づきは得ない。自分についても同様だ。いたずらに自分の生の意味を問う必要もない、ただ、自分が心から何を望んで生きていこうとしているのか? そのことをまず明らかにすべきなのだ。そして、それさえも見失って、或いはわからないまま、ただただ流れていく時間を無為に過ごしているのなら、自分が何をしているときが一番しあわせなのか、問うてみたらいい。

 求めるものが定まれば、環境もそれに応じて整ってゆき、日頃は見逃してしまうことの多くが、ひとつひとつ、発見ときづきの旅になる‥。

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2008年10月13日 (月)

生と死

今日は「死のアート OSHO:市民出版社」から紹介です。

死のアート

見出しで、和尚は本当に生きたければ、死ぬ用意をすることだ。

生を理解した者は、死を受け入れ歓迎する。

その人は一瞬一瞬に死んで、一瞬一瞬に蘇る。

過去に対して死に、何度も何度も未来に蘇る。

とあります。

私たちは、死ぬときに自分の所有物や、宝物、親しい人たちから別れを告げねばならない。死の視点から生を考えなければ、生きていることは、ただ虚しいだけのものになってしまう。ひとによれば、「私は私の生きた証を残したいのだ」といわれます。誰かの心に自分の存在が刻まれることは大切なことなのだ、と…

しかし、それよりももっと重要なことがある。それについてこの本には色々と書かれてあります。

 いったん生を知れば死をも知る。

 普通私たちは、死は生の終りにやって来る、死は生に対立する、死は敵だ、と考える。だが、敵ではない。もし敵と考えているのであれば、生を知り得ずにいることを暴露しているに過ぎない。

 死と生は同じエネルギーの、同じ現象の両極ー 満ち潮と引き潮、昼と夜、夏と冬だ。死と生は別々のものでも反対のものでも、対立するものでもない。それらは補い合っている。死は生の終わりではない。

実のところ、それは一つの生の完成、クライマックス、最終局面だ。いったん生とその過程がわかれば、死が何であるかもわかる。

 与えられた生を懸命に生きようと思うなら、死について考えざるを得なくなる。そして死について考えるところから、自分の生を見たとき、それだけでも人生に対する姿勢が変わって来る。そこに一貫して求めるキーワードは、「誠実」「清浄」「至福」「知性」「自分を知る」‥ である。

 生きるためには、生活し、豊かになるためには競争に勝ち残り、成功しなければならない。生存競争に生き残るというのは、動物の本能的な資質だ。しかし、それだけでは生きている意味がない。人間は生きる意味を絶えず問い続ける。それがひとを高みにいざなっている。そのことを決しておろそかにしてはいけない。世の中が厳しくなって来た今だからこそ、生存競争に明け暮れ、呑み込まれてしまうだけの生は虚しすぎると思いませんか。

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2008年10月12日 (日)

西穂高②

昨日の続きです。

2000m付近の紅葉です。

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目の前の頂上を目指しました。

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頂上から、眼前に上高地が見えます。

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コーヒータイムでした。cafe

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2008年10月11日 (土)

西穂高

西穂高温泉口から見た西穂高の全容

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西穂山荘から西穂高への道

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西穂高への道のりからみた上高地(左側)、乗鞍岳(中央)、焼岳(右側)

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今回は、コーヒーブレイク致します。cafe

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2008年10月 7日 (火)

内なる異性(1)

 以下は和尚への質問者がどうすれば外側の女性の助けを得て、内側の女性と一体化できるのでしょうか?」と問うたところです。質問者は男性ということで、男性はそのまま、女性は「女性」というところを「男性」と置き換えて読み進めていってください。

 "どうすれば"と考えてはいけない。愛が在るなら、愛は起こる。愛は"どうすれば"ではない。愛はノウハウではない。理由を一切持たずに、ただ愛しなさい。敬意をもって、畏敬の念をもって、ただ、愛しなさい。ただ愛しなさい。

相手に肉体ではなく魂を見て、思考ではなく、無心を見て、相手に無心を見られれば、内側の女性を見つけるのはとても簡単だ。そのとき外側の女性は媒体に過ぎない。外側の女性を通し、外側の女性を経由し、あなたは内側の女性に振り戻される。けれども、相手の外側の女性が肉体にすぎなければ、あなたは遮られる。相手の女性がまさに魂、空、零(ゼロ)、抜け道であれば、あなたを遮るものはない。あなたのエネルギーは後戻りして内側に入り込み、自分自身の内側の女性を見いだす。

 各々の女性や男性が、内なる女性、内なる男性を見い出す外側からの助けとなれる。だが、それに"どうすれば"は一切ない。敬意が必要だ。相手の神聖さという見地から考慮しなさい。瞑想しなさい。相手は神性なるものだ。その姿勢を行き渡らせなさい。その気候を自分のまわりに取り巻かせなさい。それは起こりつつある! すでにその途中だ。 

前著「タントラの変容:和尚」市民出版社

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2008年10月 4日 (土)

男と女(5)

 人はだれでも自分の中に、異性の側面を持っている。これは、C.Gユングが「内なる異性」について、男性のそれをアニマ、女性のそれをアニムスという言葉で表しています。

しかし、その起源は道家の修行法の書「太乙金華宗旨」にあり、それに基づいてユングは解説書を書いています。同様に和尚も「黄金の華の秘密:めるくまーる社」でアニマ、アニムスについて説明しています。

アニムスとは男性原理、アニマとは女性原理、この双方がひとりの人間のなかに存在し、肉体としての性では顕われない異性の側面が影として心の深層に残されるというのがユングの解釈です。

もともとは人間には男性女性の両方の側面を持っており、これを瞑想によって全一な総合体としての意識に高めることが本来の道であるというわけです。私たちが外側の異性に惹かれるのは、無意識に追いやられている内なる異性を呼び覚ますためのきっかけに過ぎません。そのきっかけを通して、人は自分の内の異性を統合していくというのです。

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2008年10月 2日 (木)

関係(1)

「ヨーギバシャン 真理の響き:平河出版社」より

どんな人間関係でも、そこに何らかの欲望や搾取があるときには、それは他人に対して生きるということになる。

そしてみんなと共に生きるというのは、ほかの人たちが幸福になるよう励ますために力を合わせるということであり、

みんなのために生きるというのは、ほかの人を高め向上させるために自分の物質的、精神的、精力的な力のすべてを喜んで捧げるということである。

以上が人間関係の三つの類型だ。

他人のために生きると言う第三のタイプはあなたを不死なるものにし、第二のタイプの人間関係はあなたを幸福にし、第一の人間関係はあなたを悲惨にする。そうしてこの行動様式こそが人の運命を決定するのだ。

 関係するための行動様式には3種類のアプローチがあるとヨーギはいう。そして、それら関係において築き上げるそれぞれの世界には特色がある。どの世界を選ぶかはあなた次第だ。第一の人間関係は修羅の世界、第二の関係は天国(幸福)の世界、第三の関係は至福(真実)の世界だ。それぞれの世界は自らが導き出すもの。それを自分が自覚しようがしまいが‥。導き出すという意味において、人々は平等に責任を負わされている。そして第三の可能性については憶測する以外にすべはない。

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