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2008年9月

2008年9月28日 (日)

空の瞑想(2)

「闇と光の瞑想(和尚講和録)」市民出版社刊 より

  夏、空全体が果てしなく晴れ渡っているとき、その晴れ渡りの中に入る。

 空に瞑想するー 雲ひとつなく、無限に空っぽで、晴れ渡った夏空にー。

それはまったく手つかずであり、その中では何ひとつ動くものがない。その空に思惟する。その空に瞑想する。その晴れ渡りの中に入る。そしてその晴れ渡りになる。

 雲ひとつない大空に瞑想すれば、突然マインドが消え去っていくだろう ‥‥‥マインドが落ちていくだろう。そこには隙間がある。突然あなたは気づくだろうー それは、まさに晴れ渡った空が自分の中に入ったかのようだ。合間が現れる。少しの間、思考は止む。まるで交通が途絶え、動くものが何もなくなったかのように。

 最初のうち、それは瞬間的なものだろう。たとえ瞬間であっても、変容をもたらしてくれる。少しずつマインドは減速し、もっと大きな隙間が現れる。何分もの間、思考が、雲が存在しなくなる。

思考が、雲が存在しないとき、外側の空と内側とはひとつになる。思考こそが障壁だ ‥‥ 思考こそが壁を作り出す。思考があるからこそ、外は外となり、内は内となる。思考がなくなれば、外と内の境界はなくなり、そのふたつはひとつとなる。実際のところ、かつて境界などけっして存在していなかった。境界があるように見えるのは、まさに思考のせい、障壁のせいだ。

 ここで、「マインド」とは蓄積された過去のことと定義されている。和尚は「マインド」について次のように述べている。

 マインドは決してここにはいないし、けっして今にいない。マインドはつねに過去から来る。それは蓄積であり、記憶だ。

 マインドとは、あなたの得てきた体験すべてであり、あなたの遭遇した情報すべてであり、あなたが掻き集めたり、耳にしたり、聞いたり、読んだりして蓄積した知識のすべてだ。マインドは絶えず蓄積している。

 空が必ずしも夏空で晴れ渡っている必要はないと思う。今の秋空は色々な形の雲が横切っていきます。私は、その雲の隙間に覗かせる青空の晴れ渡りの瞬間に瞑想したりしています。むしろ雲が流れている時にその雲をいろんな思考と捉え、形の良いと自分がみとれている雲も、それに対する執着心として考えます。その形が崩れ去ったとき、それにこだわることを離れるといったことをするうちに、青空がやってきます。そしたら、それを内に行きわたらせるように瞑想するのです。

 私の思うには、1つの技法でもやってみると奥深いものがあります。和尚は112の技法すべてを行なうのではなく、自分のマインドの傾向に合った技法というものがひとそれぞれ必ずあるので、自分に合うと思ったら、それをとことんやってみることを勧めています。確かに、まずはやってみること、そこからようやくスタートするということなのです。

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2008年9月26日 (金)

秋の夕焼け(1)

秋の空を眺めていたら、夕焼け空がきれいでした。

Ts280392_3                                                      車を走らせると、変わった雲の形に遭遇しました。

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                                                     気をつけてなければ見られない雲でした。太陽に照らされてなければわからなかったかもしれない。

デジカメを持参してなかったのが悔やまれますが、見られただけでも良かったです。このあと雲の尾が延びて、上へとつきあがってゆきました。

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2008年9月23日 (火)

空の瞑想(1)

記事「永遠の一瞥②」でも紹介しましたが、「光と闇の瞑想:市民出版社」からです。

 この本は和尚の講和録のなかでも、特に112もの瞑想法を全10巻にわたって紹介している膨大なものです。この10巻には瞑想だけでなく、人間の持つ心理的な特徴や、真理の探究者にとって陥りやすい過ちをあますことなく述べられています。 

 この巻は特に空の瞑想だけでなく、キーワードとしての「エゴ」「マインド」「空(くう)」「思考」などを重点に書かれています。空についての瞑想は私が一番好きな瞑想でもあるので、次回に紹介しようと思っています。

 和尚の講和本を紹介している私自身、陥りやすい過ちは、自分がその本によってあたかも知識を獲得したかのような錯覚を起こすことです。何か問題が起きたとき、化けの皮がはがれるような知識は本物ではありません。

 本物の知識とは、あなたに起こった知識のことだ。聞いたわけでもなく、読んだわけでもなく、それについて情報を集めたわけでもない。それは自分自身の知識だ。そこには何の疑問もない。それを得たら、もはやそれに逆らうことはできない。

 情報に頼ってはいけない。その情報源がいかに有力なものであろうと、いかに有力なものであろうと、いかに有力な情報源から仕入れてこようと、情報は情報だ。たとえブッダから聴いたとしても、それはあなた自身のものではない。どのみちそれはあなたの役には立たない。けれども、あなたはそれが自分の知識だと思いつづける。そして、この誤解によって、エネルギーや時間や生が浪費される。

 自分自身の知識とは何か? それは自分の体験のなかから、気づき、自身についての意識の拡大を得るものが本当の知識だ。外部の知識は全く無駄ではない。しかし、それは自分の体験によって自己消化されなければ意味がない。他人からやすやすと与えられるしあわせには限りがあるというのも、それは、自分の意識状態としてしっかり根付いていないからだ。ネットで色んな情報が飛び交っているが、それによって自分が成長するとは思ってはならない。自分が本当に必要だと心から思っている知識は外部の情報というきっかけを得て自分のものになるだろうが、それも日常のなかの気づきを待たなければならない。このことを忘れて知ったかぶりをしてはいけないと思う。

 最後にこの「タントラ秘宝の書:全十巻(原題:ヴィギャン・バイラブ・タントラ)」:市民出版刊について和尚の紹介文をつけておきます。多くの方が、一冊でも手に取って読まれることを願ってやみません。

 「ヴィギャン・バイラブ・タントラ」という言葉、それは「意識を超えてゆく技法」という意味だ。これは至高の教え、教えなき教えだ。もし適切な技法が使われたなら爆発的な成長が起こる。そうした技法は何百万年もの実験を経てきたものだ。

ひとりの人間によって考案されたものではなく、大勢の探究者によって生み出されたものだ。その精髄だけがここに示されている。            

ー 和尚

 

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2008年9月21日 (日)

笑い(1)

「生・愛・笑い」オショー:めるくまーる社から紹介です。

和尚は本文の中で愛と笑いの吟遊詩人といわれる程、笑いについて言及しています。

私たちは、ふと気付くと、生きてることにかなり深刻であることがわかります。この深刻さが生を台無しにしているというのです。ではそのなかから…

 生全体は、すばらしい宇宙的なジョークだ。それは深刻な現象ではない。ーそれを深刻に受けとめたら、あなたは生を取り逃がし続けるだろう。それは笑いを通してのみ理解される。

 私の人間に対する定義は、人間は笑う動物だというものだ。笑うコンピューターはない。笑うアリはいないし、笑うハチはいない。笑うことができるのは人間だけだ。それは成長の極みだ。そしてあなたが神に届くのは、笑いを通してだ。-なぜなら、あなたの内にある最高のものを通してのみ、あなたは究極に届くことができるからだ。笑いが橋にならなければならない。

 ‥私たちは世界中の人々に、もっと深刻ではなく、もっと感受性豊かになって欲しい。もちろん誠実であっては欲しいが、けっして深刻ではなく。

私たちは、世界中の人々に、ユーモアのセンスは宗教的な人間のもっとも基本的な資質のひとつだということを学んで欲しい。

 もし笑えなければ、あなたは生における多くのものごとを見逃す。多くの神秘を見逃す。あなたの笑いは、あなたを幼い無邪気な子供にする。あなたの笑いは、あなたを存在に結び付けるー どよめく大海に、星々との沈黙に。

言うまでもないが、人の不幸を笑ったりすることを述べているのではない。自分が心から笑うことが、他の人も楽しませる、笑わせることが生の本質だと言っているのです。もし、この与えられた人生も幾つものドラマのなかの一つの舞台に過ぎないことがわかれば、物の見方も変わってくるかもしれない。だからといってこの与えられた生の今、この機会は取り換えのできないかけがえのないものである。

一度限りの人生を一生懸命に、しかし、笑いを忘れず余裕を持って生きよという、和尚のメッセージがここには示されているように思う。

 

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2008年9月18日 (木)

知恵(1)

ヨーギ・バジャン真理のひびき:平河出版社より

幸福のあるところにはやがて悲しみが訪れる。

悲しみのあるところにはやがて幸福が訪れる。

悲しみは幸福を引き寄せ、幸福は悲しみを引き寄せる。

これはサイクルだ。

夜の後には昼が続き、雲の後には太陽の光が、

そして青春の後には老いが訪れる。

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2008年9月11日 (木)

信頼(1)

「タントラの変容:市民出版社」和尚から

 いつだったか、こんなことがあった。惨めさに打ちのめされた男が、非常に取り乱してわたしのところへやって来た。「わたしは死ぬつもりだ。」

「どうしてかね?」わたしは言った。

彼は言った。「信じていた妻に裏切られた。わたしは完全に信頼していたが、妻は他の男を愛していた。今の今までわたしはそれを知らずにいた。何通かの手紙を手に入れて彼女に聞いた。執拗に問い詰めた。妻は、これまでずっと愛してきたと告白した。わたしは死ぬ」と彼は言った。

わたしは言った。「彼女を信頼していたと言ったのではないか?」

彼は答えた。「そうだ。わたしは信頼していたが、彼女がわたしを裏切った」

「信頼ということで、あなたは何を意味しているのだろう? 信頼について何か間違った観念を‥‥ 信頼も政治的であるようだ。彼女が裏切ることのないようにと、彼女を信頼したのだ。あなたの信頼は詐欺だ。今度は、彼女に罪悪感を抱かせたいと思っている。こんなものは信頼ではない」

彼は非常に困惑した。彼は言った。「もし、これが信頼でないとすれば、あなたは信頼をどう意味するのか? わたしは無条件に彼女を信頼した」

 わたしは言った。「あなたの立場だったら、わたしにすれば信頼とはこういうものだ。わたしは彼女の自由を信頼し、彼女の知性を信頼し、彼女の愛の受容力を信頼する。彼女が他の誰かと恋に落ちるなら、それもまた信頼する。彼女は知性的だ。彼女は選択できる。彼女は自由だ。彼女は愛せる。わたしは彼女の理解を信頼する」

 あなたは、どういう意味で信頼と言うのか? 信頼するとき、あなたは相手の知性を信頼し、相手の気づきを信頼する。あなたはそれを信頼する。他の人と愛に入っていくことを相手が望んでもそれは完璧にOKだ。痛みを感じるとすれば、それはあなたの問題であり、相手の問題ではない。 痛みをかんじるなに、それは愛のせいではなく嫉妬のせいだ。これは一体どういう類の信頼だろう、あなたが裏切られたという、その信頼とは? わたしの理解する信頼は、裏切られないものだ。まさにその本質からして、まさにその定義からして、信頼は裏切られるものではない。信頼を裏切るのは不可能だ。裏切ることが可能であれば、それは信頼ではない。

 これは理解するのが難しい。

男が、「彼女が裏切ることのないように彼女を信頼した」と言っているように、私たちの信頼は期待が混ざっている。自我は自分の都合の良いように納まってくれる相手を絶えず捜している。自我は、無視されるのが怖いのだ。だから自分のことを愛してくれる、気にかけてくれるのなら、それにつりあった愛情しか示さない。「他人にしてもらいたいのなら、まず自分からしなさい」というのも、自我は自分に跳ね返って来ることを期待する。人間的な愛とはけちなものだ。

 和尚の云う信頼とは持っている偽りの自我を明け渡すことだ。自我が集団意識から個人の意識へと高められたとき、持っている自我を明け渡すこともできる。自分というものを見失っているのではなく、大きな自己とつながった成熟した自我がそこにあるが故に、相手の選択の自由も認めるものだ。

 私たちは誰かに依存ししていないとやってゆけない。私の愛が誰かに向けられたものであるとき、それは相手に依存してしまっている。自分との関係が失われることへの不安が自我に働いているのだ。和尚の愛は内側から溢れ出るものであり、対象に依存しない。そして相手を選ばない。和尚の愛は常にそこにある。私たちは小さな自我にこだわりつづけて生きている。たかだか何十年の生を守るために生きているのだ。この小さな自我を明け渡さなければ大きな自己にたどりつけない。自我の殻は私たちが本来持っている光の存在としての自覚をいつしか見失わせてしまった。

私たちは、自分で刀を手にしていることも知らないで、あなたを信頼していますと言っていることに気づかなければ、安らぎはやっては来ない。本文に戻ろう。

 支配が存在するとき、愛は消える。所有が存在するとき、愛は消える。

 あなたが真に彼女を愛するなら、彼女の自由もまた、愛する。そして彼女はあなたの自由を愛するだろう。人を愛していて、どうしてその自由が破壊できるだろう?

人を信頼していれば、その自由をも、あなたは信頼する。

 

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2008年9月 7日 (日)

悟り(2)

小さな<私>が大きな<私>に気づき、小我が大我を認識したとき、合一が達成されている。

そして人が自分は"ひとつ"であり、あらゆるものが"ひとつ"であるということを知ったとき、さらに探し求めるものが他にあろうか?

私たちが何かを探し求めなければならないのは、<私>が存在し、その他のすべても<私>とは別々に存在しいると思いこんでいるときだけだ。

「ヨーギバジャン 真理の響き」:平河出版社より 

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2008年9月 6日 (土)

野心と愛(2)

前回の続きです。

 野心や利益という想いを持って愛するなら、達成願望や何らかの動機を持って愛するなら、あなたの愛はそれと同じ割合だけ毒されるだろう。だから、あなたの愛は幸せをもたらさず、苦悩ばかりが生まれるのだ。

 父親は息子のことで機嫌が悪く、息子は父親のことで機嫌が悪い。‥他人のことで機嫌のいい者は、一人もいない。それは愛がないからだ。このいわゆる愛は、他の動機に結びついている。その動機こそが苦悩のもとだ。

 母親は思っているー 息子が成長したら、自分の満たされなかった野心を成し遂げてくれると。息子は。彼自身の願望によって世に生まれた。あなたの野心を満足させるためではない。‥

 誰もが自分の野心や、カルマの束縛を持っている。誰もが自分自身になるために生まれる。わずかでも他人に期待を抱いていたらそれは毒のようにはたらくだろう

 母親は考えるー 息子が成長したら、夫のかなえてくれなかった満たされぬ夢をかなえてくれるだろうと。しかし、息子は別の女性と結婚するー すると彼は、彼女の期待をかなえるだろうか、それとも母親の期待をかなえるだろうか? 他人の期待をかなえられる者などいるかね?  自分の願望は、決して満たされることがない。まして、他人の願望などは満たせない。あなたの愛に野望があるとき、これこそが問題なのだと理解しなさい。問題はあとからやって来るのではない。その種子は、野望の中に存在しているのだ。

以上、「シャワリングウィズアウトクラウズ:和尚(市民出版社)」

 あなたの野望に問題があるとき、これこそが問題なのだと‥ さあ、それは頭の中でしか理解していないことが多い。私たちは、何度も同じ過ちを繰り返す。それは、自分自身が決して自分らしくいられるように生きてきたからではないからだ。親に期待され、周囲から期待され、他人の期待でがんじがらめになった人が、どうして関わる相手に期待を抱かずにおれようか。

自分が自分であるために生きようとする人は、相手に野心を抱いて接することがない。お互いの生き方を尊重できるからです。現実は、相手から期待され、自分も期待する、そうして相手の期待に応えようとしているうちに自分を見失ってしまう。それは親に育てられる段階でもう始まっている。

誰も、他のひとの野心を満足させるために生まれてきたのではない。お互いの野心を満足させることが愛なのではない。そのことと、純粋な愛とは別なのだということを和尚はいっている。誰もが抱きもつ、相手への期待、自分は相手に何を期待し、相手は自分に何を期待しているのか、そのことがわかるだけでも、明らかにするだけでも、それが純粋な愛に一歩近づくことになっているのです。

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2008年9月 3日 (水)

自己(1)

 全世界は自分が何であるかに気づき、そのあるがままの本質でいるためにある。

慢心したり萎縮したりしないこと。その中間点を見つけてごらん。

人間にとって問題になるのは「あなたは゛これ"ですか、それとも゛あれ"ですか」と追求されていることだ。けれども、あなたは゛これ"でも゛あれ"でもない。

あなたは`あるがまま"のあなただ。

 人は自分の実存を宇宙との関連において理解しなければならない。

それを知る者は誰であれ真理を知る。

゛あなた"は゛あなた"だということを理解すれば、まわりのすべてが美しく見えることだろう。

「ヨーギバジャン 真理の響き」:平河出版社より 

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