« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

2008年8月31日 (日)

野心と愛(1)

 女性の覚者に関する講話からです。以下は弟子が、「人間はみな少なかれ野心を持っているため、人間の愛はみな偽りなのでしょうか? 」という質問に和尚が答えたものです。

 愛の中に野心があればあるほど、同じ割合で愛は偽りになる。野心が少なければ少ないほど、愛はよりいっそう本物になる。誰かを愛するときあなたは愛そのものゆえに愛するだろうか? 別の動機がたくさん見つかるほど、愛は少ない。「なぜ、この人を愛しているの? 」と訊かれたら、あなたは何の理由もつけられなくて口ごもるだろう。

あなたは言う、「何の理由もないさ、それはただ起こった。探しても、まったく理由は見つけられない。自分でも理解できないんだ」。

覚えておきなさい。愛はまったく理由のない瞬間にのみ降りてくる。理由があるものは俗世に、理由のないものは神性に属している。

人生で成功している人々は、愛もなく生きている人たちだ。愛と成功は馬が合わない。なぜなら成功のためには非情でないといけないが、愛はあなたが非情であることを許さないからだ。愛とお金は同時に達成できない。なぜなら、お金を貯めるには暴力が必要だからだ。そして愛は、それほどの暴力には耐えられない。愛と権力の結びつきはあり得ない。なぜなら、権力には気違いじみた猛進や、熾烈な競争が必要だからだ。

以上、「シャワリングウィズアウトクラウズ:和尚(市民出版社)」

 話は変わるが、今、先進国と開発途上国、資源国との間でも、資本主義原理に基づく弱肉競争が繰り広げられている。それは他人事ではなく、私たちの職場や生活に既に響いてきている。企業間の駆け引きなど、愛などの関与するところではない。誰がより裕福な生活を勝ち取るかでは納まらない。誰が生き残るかという瀬戸際までそのうち追い込まれるだろう。そのときにあっても、では自分は生き残るに足る人間であったかを、問われなければ生きている値打ちが測れないというものだ。命に優劣はないが、生き方に責任は問われるのだ。自分が死ぬときに、果たして生きてどれだけ値打ちのある生き方をしてきたか、それだけが最後に問題となるのである。いかに生き残るか、いかに裕福に過ごすかではない、いかに生きてきたか‥ それは今もひとりひとりの中に問われねばならないのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月30日 (土)

両極性(1)

あなたが幸福なときには、それを神の祝福として受け取りなさい。逆に不幸なときには、それを神の試練として受けとめるのだ。

ものごとは後になってよくわかることがある。「なんであんないい人が不幸になったりするんだろう」とか、「神様はどうして私に試練ばかりをお与えになるのですか?」とか「あの人ばかりがどうしていい目にあうのですか」とか疑問に思ったことはないだろうか。

人生は一見、不平等のように思える。しかし、人はそれぞれ乗り越えるべき壁が違っているのでそのように見えるだけのことが多い。人はそれぞれ、その試練の大きさによって乗り越えた時の成長の大きさの違いもそこに見出されるものだ。すべてにあてはまるとは言えないが‥

もし状況と渡りあうだけの成長した精神がなければ、何が何だかわからないままに、祝福されたかと思うと悲惨な目に遭ったり、悲惨な目に遭ったかと思うと祝福されたりー 私たちはボールのようにはね返りつづけるだろう。だから心のなかで、あることには別のことが後に続くと覚悟し、いつも感謝の気持ちをもって生きるなら、もはや私たちにとって悲劇は悲劇でなくなり、祝福も祝福ではなくなる。そしてついには、すべてが正しくかつ究極的なものとなるだろう。これが不動心というものだ。この心境においては、人はこのうえもなく解放されて生きることができるから、その人にとって何ひとつ問題はなくなる。

覚えておきなさい。あなたが幸せすぎるときにはあなたの心はつぶれかねないし、逆に悲しすぎるときにもあなたの心はつぶれかねないのだ。

[真理のひびき:ヨーギ・バジャン(平河出版社)」より

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月27日 (水)

悟り(1)

価値づけがどのようにでも調整しうるものであることに気づくことが、慈愛に他ならない。悪い人などいないのだ。人がうまく行動したり理解することができなかったとしても、あるいはその人に限界があったとしても、あなたは慈愛をもつべきであって、拒絶すべきではない。

あなたを傷つける人がいるのはなぜか。あなたの悪口を言う人がいるのはなぜか。それはその人がそれ以上のことができないからなのだ。

「真理へのひびき(無限への瞑想):ヨーギ・バジャン」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月24日 (日)

ヨーギ・バジャン

現代の聖人の一人、ヨーギ・バジャンを紹介します。

彼はアメリカで広めたクンダリニーヨーガの導師であり、和尚とならぶ覚者でもあります。

テキストはヨーギ・パシャン、「真理のひびき」(平河出版社)を使用します。

この本の特徴は訳者の言葉を借りて言えば、これはまず、ヨーギバシャンの説法集であるということ。次に、パシャンの弟子たちにとっては瞑想書の位置づけにあること。そして、東洋と西洋、宗教と科学を統合し、止揚する方向で新しい精神世界を模索しているということ。さらに瞑想書にありがちな難解な表現を避け、誰にでもわかるシンプルな語録的表現をとっていること。それでいて内容は深く、和尚のように繰り返し表現などを使わず、無駄な語彙をさいていないことなどが挙げられます。訳者はこの本を「東洋の瞑想録」として位置付けています。

ヨーギバシャンの思想的背景は、その手の本に譲るとしまして、その実践内容について訳者は次のように要約しています。

 ヨーギ・バシャンの思想は非常に広範囲で多義的である。仏教風にいえば密教的であると同時に逆に真宗的でもある。密教的だというのは、もともとイスラム密教とタントラを主要な宗教的源泉とする彼にとって当然のことであろう。詳細は別の機会に譲るが、広義の密教との類似領域はミスティシズム、タントリズム、身体論、言語論などである。具体的にいえば、チャクラとクンダリニーの覚醒、性的エネルギーを瞑想に転化すること。肉体的修行と呼吸を重視すこと。この宇宙をヴァィブレーションとして認識し、真言(マントラ)を重視し、言霊(ことだま)を実証すること。意識の覚醒を強調すること ー 等々である。

 本書は1990年に第二刷が発行されたものを使用しています。今、彼のその語録をブログで紹介するとともに読み返すことで、新たな自己認識と瞑想への深い理解が得られればと思っています。日々の瞑想は、実践が大切ですが、この語録は真理への案内書として読み進めていただければ幸いです。

項目としては

①言葉②愛③女性④幸福⑤自己⑥知恵⑦神⑧精神⑨悟り⑩両極性⑪献身⑫関係⑬瞑想までの13項目として分かれています。

それぞれの項目別に紹介していきますが、私はコメントを差し控えます。得るものがあるかどうかは、それぞれご自身の立場によるからです。最初なので、今日は短い語録から始めます。

幸福から‥

幸福とは意識のやすらぎだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月23日 (土)

エネルギーの使い道(2)

前著、「ディヤンスートラ ー瞑想の道」から続き

 わたしは、あなたがたに感情の方向転換をしてほしい。この平凡な生を創造的な方向へと向けてほしい。心配することはない。家の周りに庭をつくり、草木を愛で、それに喜びを得ればいいだけだ。たいしたことをする必要はないー 石を磨き、彫像をつくってごらん! 知性ある人はみな、生業に加えて何か創造的なことをするべきだ。創造性に時間をさかない人は、悩みに暮れて自らの生を滅ぼすだろう。

 ちょっとした詩を書いてもいいー たいしたことをする必要はない。病院へ行って、病に臥した人に花をあげてごらん。通りで物乞いを見つけたら抱きしめてごらん。ただ自分の喜びのために創造的なことをしなさい。何かを与える必要はないし、何かを得る必要もないー 行為そのものが喜びだ。

 生において、単に喜びのための行為を選びなさい。あなたの全エネルギーをそれに向けなさい。すると破壊的なエネルギーは残らないだろう。創造的になればなるほど、ますます怒りは消えていく。怒りは非創造的な人間であるしるしだ。‥

 単に喜びのための行為、仕事や家事においてそれを見いだせるのなら、それでいい。

趣味に見いだせれば、それもまたいい。ただ、他人の喜びを我がことのように喜ぶのだけは創造的とはいえない。日常のどこかに、自分の行為が、本心からしたいことがひとつでもあれば、それが創造性につながっていく。怒りや嫉妬、否定的な感情はそれによって解消される。いまもなお、精神疾患者が増えている昨今、創造的に生き、生を楽しんでいる人が必ずしも多くはないことを示しているように思う。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月16日 (土)

エネルギーの使い道(1)

前著、「ディヤンスートラー 瞑想の道:OSHO」(市民出版社)から紹介です。

この世の誰も罪人ではないし、聖人でもない。人は単にエネルギーの通り道だ。体内には、蓄積された多くのエネルギーがある。このエネルギーを創造的に使わなければならない。

 だからまず、感情が湧きおこったら、どんな形の運動でもいいから、身体を通してそれを解き放ちなさい。次に、創造的になるようにしなさい。あなたがたはみな、創造性を持ち合わせてはいない。

‥近頃、あなたがたは創造の喜びを失ってしまったー 手作りの品はあまり残っていない。あなたは何も作らない。現在の世の中のあり方では、手づくりの品はまったく残らなくなるだろう。何かを創造することで得ていた喜びは消えてしまった。それが損なわれてしまったら、このエネルギーすべてに何が起こるだろう?

それは破壊的になる。エネルギーは本来、破壊か創造のどちらかへ動かざるを得ないものだ。

 創造的な生を送ることを学びなさい。創造性とは、単なる喜びのために何かをすることだ。彫刻をしてもいいし、詩を書いたり、歌を歌ったり、シタールを弾いてもいい ー  何をするかは問題ではない。だが仕事としてではなく、ただ喜びのためにそれを行なうことだ。生活の中で、単なる喜びのための何か、仕事ではない何かをやりなさい。すると破壊的なすべて変容され、創造的になるだろう。

 仕事ではない何か、仕事だと、スケジュールに追われ、成果を出すことが必須条件となる。人は何をしたいかと問う前に、どんな仕事でもできることからやらなければ生活は成り立たない。また、趣味が仕事に変わったら、したいときにいつでもする、気が乗らないときにはやらない、という訳にはいかなくなる。だから、仕事以外に創造的な自分が楽しめる遊びを必要としている。

 今に始まったことではないですが、いつの時代にも戦争は存在し、それによって犠牲になってきた人達がいる。犠牲者は恨みのエネルギーの塊となって、世の中を破壊する方向に持っていくことに参加する。破壊の悪循環を断つことが求められている。

日本社会も例外ではない。格差社会と言われ、虐げられている弱者が少なくないにも関わらず、なぜ虐げられている原因の張本人たちを懲らしめようとしないのか?  という裏には単なるあきらめ、無知以外にもあるのではないだろうか? 自分一人でも世の中を良い方向、創造的な方向に変えたいと望もうとする意気込みがあるひとが少ない。それはなぜなんだろう。それはこんなに苦しめている相手ではなく、苦しんでいる自分自身の破壊に無意識にエネルギーが注がれているのではないのだろうか? それは全くないとは言えない。

和尚の言葉に、どうか耳を傾けてほしい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月14日 (木)

男と女(4)

「英知の辞典:和尚」(めるくまーる社)より

 女性には大きな抵抗力があり、大きな忍耐力がある。女性のほうがバランスがとれている。生理学的に、化学的に、女性のほうがもっとバランスがとれている。女性のほうが美しく見えるのはそのためだ。彼女の美しさは生理学的なバランスに根がある。

 男性には内なる不均衡があり、そのために凶暴になりやすいし、いともたやすく精神に変調をきたす。どんな女性でもいともたやすく男性を狂わせることができる。

 結婚していない女性たちのほうが気楽にやっている。政治的に経済的に妨げられさえしなかったら、彼女たちは結婚しないでいたい、ぜひそうしたいと思っただろう。

‥たとえ母親になりたいと思っても、彼女たちは結婚しないで母親になりたいと思っただろう。確かに女性には母親になりたいという大きな欲求があるが、妻になる大きな必要はない。

 男性が必要とするのはより生理的なものだ。女性が必要とするのはより心理的なものだ。だから結婚で女性はいつも搾取されているように感じる。そして彼女の感じていることは真実だ。なぜなら、男性の興味は性的なものだが、女性の興味ははるかに全一なものだからだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月 9日 (土)

生きる意味(2)

私たちは、人生から何かを問われている存在です。だとしたら、その問いを問うているのは誰なのか? その問いに答えることこそ私が求めるところの終着駅なのです。しかしそれは世界の真理を知りたいという気持ちに他ならない。

世の中の出来事すべてに意味があるのだとしたなら、それは世界の真理を知ることでようやくつかめることなのだと思います。自分の行っていること、置かれている環境についての理解が深まるにつれて、自分と世界との有機的つながりをますます実感してくるものです。その理解から、自分がしたいことと、すべきことのつながりも見えてくるように思えるのです。

前著:「黄金の華の秘密」和尚から

いいかね、超越的なものを夢見ることを止めてしまったら、人は無意味な生を生きることになる。意味というのは人が大いなる全体の一部、自分よりも高次なものの一部、自分よりも大きなものの一部となってはじめて生まれるものだ。

‥‥あなたがたに語っているとき、私は彼岸から語りかけている。それゆえ、私はそれを借り物の知識から語っているのではない。私は自分の体験から語っている。私は不可能なことが可能になりうることを知っている。私のなかで実現したのだから、それはあなたのなかででも実現しうる。ひとたびあなたの内なる実存が光で満たされれば、ひとたびあなたの内側に闇がないことを知れば、あなたは宗教的になる。

‥‥人間はこの世で最もすばらしい潜在能力を持っている。欠けているものがあるとしたら、それは自分自身を超えたいという大きな夢が欠けているということだ。あなたは世俗的なもので満足してしまっている。あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわりはじめている。あなたは上をみあげていない。遥か彼方から呼びかけてくるものがある! 遥か彼方から挑みかけてくるものがある。彼方からの挑戦を受け容れる者のみが真の人間だ。そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても、人間の姿はしていても、真の人間ではない。

 人間でありなさい! 未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け容れなさい。それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。

 世の真理を追求はしても、決して今を生きることにおろそかであってはならない。彼方から問われている存在としてのこの゛自分゛自身を見失ってはならない。ひとは人それぞれの立場で人生から問われ、それぞれのやりかたで答えようとしている。そのための苦悩が、その情熱が、単に生活するためだけのために生まれてきたのではない、人間としての存在理由となっている。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月 6日 (水)

本当の敵

日本に原爆が投下されて、被爆者の想いが風化されてはならない。核廃絶をいくら叫んでも、アメリカ国民の多くが、「あれは戦争をおわらせるためには仕方がなかったことなのだ」と納得されてしまっている。彼らを批判するのは簡単だ。

加害者は被害者の立場にならなければ、到底わからないことがある。だからといって人の命というものがどういうものなのか、加害者は被害者の想いをどうして汲み取ろうとしないのか?

国はその存在の保守においては、防衛手段をとらざるを得ない。そもそも、国があって境界が存在すること、それ自体が戦争を引き起こす原因となっている。自分たちの国を守るために軍隊を配備することは、いつでも戦争をする準備があるということ。

地上の人間は戦争が好きなのだろうか?

好戦的な心の裏側には、自分のなかに敵、味方の価値判断をつけてしまう習性が潜んでいる。ひとりひとりの闇が大きく渦巻いて、この世界では戦争と平和がこの先も繰り返されていくのであろうか。いま一度、本当の敵はどこにいるのか、考えないといけないのではないか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年8月 2日 (土)

生きる意味(1)

このタイトルで多くのことが語られる。一方で、全く語られることもない、単なる言葉遊びになってしまうかもしれない。それでも、不安定で明日どうなるか知れない世の中だからこそ、ひとり一人が考え続けねばならないこと、それが生きる意味についてではないでしょうか?

最初に取り上げたいのは、和尚についてのガイドブックを何冊か出されている著者のなかからです。著者はフランクルという「夜と霧」で著名な実存心理学者が、強制収容所で体験した中から生まれた人生観、収容所で起きた出来事をひきあいに出してこう綴っています。

 ‥そこで重要だったのは、カントに習っていうと「コペルニクス的」回転だった。それはものごとの考え方を180度転換することだった。その転換をしてからは、その転換を果たして後の彼らはもう「私は人生に何を期待できるか?」と問うことはなく、それからは「人生は私に何を期待しているか?」と聞くだけとなった。

 つまり、私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、初めから誤っているのだ。私たちは生きる意味を問うてはならない。人生こそが問いを出し、私たちに問いを提起しているのだ。私たちは問われている存在なのだ。私たちはその問に答えを出さなければならない存在なのだ。そしてそれは生きていることに責任を担うことだ。

こう考えると、恐れるものはもう何もない。どのような未来もこわくない。未来がないように見えても、こわくない。もう、現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからだ。すべてはもう、その都度私たちにどんなことが期待されているかにかかっているのだ。その際、どんな未来が私たちに待ち受けているかは、知るよしもないし、また、知る必要もないのだ。

 ある無期懲役囚が移送の途中火事が発生して、この黒人懲役囚は手錠を解かれ、十人の人を救って、その働きに免じて後に釈放となった。このようにどんな人にもどんなことが待ち受けているか、誰にもわからないのだ。どのような重大な時間が、どのような一回きりの機会が、まだ自分を待ち受けているのか誰にもわからないのだ。

 この人生が出した問いに答えることで、瞬間の意味を実現することができる。

 人生にイエスといおう

 自分の意味よりも、人生の問いに答えるというコペルニクス的展開によって、人はどんな現状でも生きてゆくことができる。どんな職業についているかは結局どうでもよいことで、むしろ重要なことは、自分の持ち場、自分の活動範囲においてどれだけ最善を尽くしているかだけだ。最善を尽くして、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかだけだ。各人の具体的な活動範囲では、一人一人の人間がかけがえなく代理不可能なのだ。

以上 「和尚の超宗教的世界:玉川信明」社会評論社より

和尚(ラジニーシ)の超宗教的世界―トランスパーソナル心理学との相対関係

 私たちは、人生に意味を求めるのではなく、現実問題としてある、身の周りから問われている問いについて気づき、それに真摯に答えていこうとする姿勢が大切なのだと言える。そしてそれは、ありのままの自分と向き合うことでもあり、今そこに居る自分自身から始めていくことでもある。

私たちは、自分がすべきこと、成長に向けて必要な課題といったものは既に与えられているのかもしれない。どんな些細なことでも、それは自分にとっては意味あるものだと思えたなら、そのときから、自分のどんな人生の状況にあろうとも、それは耐え忍ぶことができる。私は、最初にこれを紹介することで、ひとりひとりが自分の背丈で自分自身と向き合うことの大切さをいいたい。ひとは、いま自分のいる場所からしか始められないのだから。その一歩一歩が時間を大切にするということであり、個々の瞬間に生きていくことに限りなく繋がっているのだと思うから…。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »