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2008年7月

2008年7月31日 (木)

光と影(2)

前回の続きから…「一休道歌:めるくまーる社」

"心"小さな"心"は時間の一部だ。そして、"こころ",宇宙的な"こころ"は永遠だ

"心"は"こころ"の一部でもある。永遠が時間を貫く。

まさに月が湖に映るように、ほんとうはそこにないが映っている。

 私たちの小さな"心"は大いなる"こころ"の影にすぎない。月が昇る、満月だ。と、そのとき、地上にある無数の湖がそれを映し出す。そして、さまざまな海や川や池が‥‥。少しでも水があれば、どこでも月は映る。が、月はひとつで、影は無数にある‥‥。私たちの小さな"心"も同じだ。"こころ"はひとつだー。

それを覚者の"こころ"と呼んでもいい。全体なるものの"こころ"、宇宙的な"こころ"、神と名付けられた"こころ"と呼んでもいい。これらは名前が違うだけで、同じリアリティを指している。

 このちいさな"心"には、始まりと終わりがある。その大いなる"こころ"には始まりも終わりもない。

さて、言葉を聞きなさい。

 はじめなくをはりもなきにわがこころ

 うまれ死するも空の空なり

実に矛盾に満ちた声明だ。一方で一休はこう言う。「はじめなくをはりもなきにわがこころ‥‥」彼は"こころ"のことを言っている。

それから彼はこう言う。「うまれ死するも‥‥」彼は今度は"心"小さな"心"のことを言っている。小さな"心"は生まれ、そして、死ぬ。大いなる"こころ"は存続する。小さな"心"は影にすぎない。影は生まれ、そして死ぬ。

 あなたは影として生まれ、そして死ぬ。影に執着しすぎたら、あなたは苦しむ‥‥。それが苦悩の何たるかだ。それが地獄の何たるかだ。愛着を持ちすぎなければ、影に執着していなければ‥‥。

肉体は影だ。この心は影だ。この<生>は影だ。もしそれを静かに見守れば、これらの影がすべて過ぎてゆくのをみることができる。そうなったらあなたは、こうした影がそのなかのを過ぎてゆく鏡に気づくようになる。

その鏡は永遠だ。その鏡に達することこそ、真実が何であるかを知ることだ。

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2008年7月27日 (日)

光と影(1)

前回、影としての自分について述べましたが、では本体である光としての本当の自分との関係はどんなものなのか? それについてわかりやすい比喩で示した箇所があります。比喩はあくまで比喩なので、そこからイメージしたものに縛られてはいけません。哲学的理解を得るために和尚は語っているのではないからです。真実は言葉では表せない、その表せないものをかすかに感じ取るために比喩があるのです。

引用図書:「一休道歌」:めるくまーる社

はじめなくをはりもなきにわがこころ

うまれ死するも空の空なり

 心は、二通りに理解しなくてはならない。ひとつは"こころMind"だ。それは普遍的な"こころ"、宇宙的な"こころ"ー 全体そのもの、存在に満ちわたる意識だ。それは意識する存在だ。それは生きている。核そのものに至るまで生きている。あらゆるものが生きている。あなたはそれを知っているかもしれないし、知らないかもしれない。それは触知できないかもしれないし、目に見えないかもしれない。だが、あらゆるものが生きている。生のみが存在する。

 死は神話だ。死は幻想だ。無意識もそうだ。岩さえも無意識ではない。岩はそれなりに意識している。それは、私たちには手にいれることができないかもしれない。それを知ることはできないかもしれない。というのも、意識的である状態は無数にあるからだ。人間のありようだけが唯一の状態ではない。樹はそれなりに意識している。鳥もそれなりに、そして動物や岩も。

 意識はありうるかぎりの形で表現されうる。この宇宙には、あらゆる表現が無限にある。

 "こころ"は宇宙的な"こころ"だ。それこそ達成するべきもの。仏陀が<無>と呼ぶものはそれだ。彼が鏡のような<空>と呼ぶものはそれだ。

 そしてもうひとつの心がある。私たちが話し続けている"心"小さな"心mind"だ。

そうなると私の"心"は違う。あなたの"心"は違う。人間の"心"は樹の"心"と違はう。樹の"心"は岩の"心"とは違う。そこには違いがある。そして、どの"心"にも限界がある。それはとてもちっぽけだ。

 人は小さなものから限りないものへ消え去らねばならない。"心"は"こころ"のなかに溶けてゆかねばならない。

ここで、"こころ"と"心"の違いに目を向けてみよう‥ 続く‥

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2008年7月25日 (金)

生のゆくえ

生とは、死と彼方の世界にそなえて身仕度を整える機会だ。

死と彼方の世界に対する準備を怠っているとしたら、あなたは愚か者だ。あなたは大いなる機会を取り逃がしている。

生とは機会にすぎない。あなたが知っているこの生は、本当の<生>ではない。

それは本当の<生>に到るための機会に過ぎない。本当の<生>はまさにこの生のどこかに隠されている。だが、それは呼び起こされねばならない。目覚めさせられねばならない。それは深く眠りこけていて、まだみずからに気づいていない。そしてあなたの本当の<生>がみずからに気づいていなければ、あなたのいわゆる生はたんなる長い夢にすぎなくなる。しかも、それは甘いものではありえないー それは悪夢になる。

本当の<生>に根を下ろさずに生きることは、大地に根をもたない樹のように生きることだ。美が欠けているのはそのためだ。優美さが欠けているのはそのためだ。ブッタたちが語る人間の輝きがあなたに見えないのはそのためだ。

前著、「黄金の華の秘密:和尚、市民出版社」より抜粋

 自分たちがこの生と呼んでいるものは、未だ実現していない、自分自身の可能性、自己実現し、生がわたしに与えた能力を開花させるための機会であるのだという。

一方で本当の<生>、死と彼方の生と和尚が呼んでいるものは何だろう?

私たちは、自分自身の影として、この生を受けたに過ぎない。この影の生を私の生であると思い続ける限り、不毛な人生はどこまでも続いてゆく‥‥‥。

光として、エネルギーとして、魂としての自分を想起すること、そこに今、影として生かされている私たちの進むべき方向が見えてくるように思えるのです。

自分の影としての生を謳歌することは、それはそれで楽しいけれど、それは永遠ではあり得ない。永遠でないものにすがるとき、人は暗闇へと引き込まれてしまう。自分が自分であるために、環境が自分に対して求められていることや、自分のやるべき事柄、今置かれているおのれの立場の中に、常に新しい自分の発見ができれば、それが、本当の生に近づくことにつながっているのだと思うこの頃です。

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2008年7月21日 (月)

愛と慈悲(3)

「シャワリング ウィズアウト クラウズ:和尚」より続く

セックスは愛を期待することであり、慈悲は愛を与えることだ。愛は狭間にある。そこでは、与えることと受け取ることが同等だ。これまでセックスで満たされた者はいないが、人は常に慈悲によって満たされる。愛はセックスと慈悲の狭間、その中間にぶら下がっている。そこにはいくらかの満足があり、いくらかの不満も残っている。なぜなら、愛は半分が慈悲で、半分が欲望だからだ。愛は半分半分だー だから喜びの瞬間も多く、苦しみの瞬間も多い。

 残念なことに、九十九パーセントの人は愛を体験したことがない。慈悲など問題外だー それは遥か彼方の夢であり、幻影だ。百人のうち九十九人が欲望のうちに死ぬ。では、彼らの幻想とは何だろう? その幻想とは、自分たちが愛していたと思いこむことだ。

だからもっと考えなさいー あなたが愛を受け取ったか否かを問う前に、愛を与えたか否かをよく見なさい。

セックスと神性の間には梯子が要る。その梯子とは愛だ。

‥一歩一歩、昇りなさい。セックスから愛へ移行しなさい。すると天国のそよ風が少し吹き始める。そしてそれらを見ると、もっと何かが起こり得るという希望を抱くだろう。今日は小さな島だったものが、明日には大きな島になるかもしれない。水の上にもう少し顔を出しなさい。先に進み続けなさい‥‥。求めることから少しずつ手を引き、与えることにもっと注意を払いなさい。分かち合うことだ。

 セックス、愛、慈悲ー これらは愛の段階だ。生には、さまざまなレベルの愛がある。だから私は、愛は神性よりも偉大だと言う。愛の中で昇っていくと、神性に行き着くからだ。あなたは与える者として在るのではなく、ただ与える行為となるー あなたの慈悲がそのようなものである日、与える者が背後に残されていないとき、行為者という意識がないときー その日、その日はじめて、あなたは神性となる。あなたのエゴが落ちる日、その日あなたは神性になる。すると境界は残っていない。そのときあなたは永遠なるものの中に入り、永遠なるものがあなたの中に入る。

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2008年7月20日 (日)

愛と慈悲(2)

シャワリングウィズアウトクラウズ:OSHO から引き続き引用。

 セックスは愛のもっとも低い形だー すべてを求めながら、何も渡さない。

慈悲は愛のもっとも高い形だー すべてを与えながら、何も見返りとして求めない。それは愛の究極の高みだ。そこですべてを捧げ、何も求めない。そのときあなたは人を目的とし、自分自身を手段にする。あなたは言う、「明け渡すことができて幸せです。あなたのために生きようと死のうと、私は幸せです。どんな状況でも幸せです。何の期待もありません。私の明け渡しを受け容れてくれて感謝します。私は捧げましたが、あなたは拒絶しませんでした。それだけで十分、感謝します」

 そして、これは興味深いことだー セックスの中では求めても手に入らず、慈悲の中では求めなくても受け取る。これが生の神秘だ。これが生の逆説だ。期待する者は満たされぬままに死に、慈悲を抱く人は常に満たされる。なぜなら、生はこだまを返すからだー あなたは、何であれ自分が与えたものを受け取る。この世では、あなたの受け取るものは他人に依存しない。あなたは自分が与えたものだけを受け取る。

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2008年7月18日 (金)

愛と慈悲(1)

前のコメントにも書きましたが、私が和尚の本を紹介したいと思ったのは、日本であまりにも取り上げられていない現状を嘆いてのことです。色々な思想家をみてきましたが、覚者であり、かついままでの覚者を取り上げて自分なりに調理するといった手法は彼でなければできないワークだったと思います。

今日は、18世紀の女性神秘家であり、覚者でもあるサハジョの詩を題材に和尚が語った本を紹介します。まずは、この中でも平易に書かれていて、確信に触れているテーマを取り上げてみました。探究者の質問するところからの引用です。

シャワリング ウィズアウト クラウズ「女性の覚者に関する講話Ⅰ」:市民出版社

愛と慈悲の違いは何でしょう?

セックス、愛、慈悲ーこの三つの言葉を理解しなさい。

セックスは愛という梯子の始まりであり、梯子の一段目だ。慈悲は愛の最後の一段だ。愛は梯子全体の呼び名だ。セックスはもっとも地に落ちて、もっとも低い愛の境地だ。セックスとは、私は人から何かを得たい、私は人がいないと不完全だ、私は人がいないと空っぽだ、私は人で自分を満たさずにはいられないという意味だ。‥セックスとはー 私は人を手段として利用したいということだ。夫は妻を利用し、妻は夫を利用している。彼らはお互いを手段として利用している。だから、それほどまでの怒りがあるのだ。誰も手段などになりたくないのだから。一人一人の魂は、それ自体が目的だ。‥

自分のために他人を利用することは欲望だ。あなたは愛について語るだけだ。-

あなたは「愛しているよ」というが、内側では相手も自分のことを愛すべきだと望んでいる。だから人々が私のもとに来るとー 何千人もやって来たが、彼らは「私はいとしい人から愛を貰えなかったのです」と言う。「私はいとしい人に心から愛されています」と言う人には、一人も出会ったことがない。これは興味深い現象だ。来る人はみな「私は、いとしい人を心から愛しています」と言う。決してそれを疑わない。そして、「相手から愛を貰っていないのです」と言う。そして、他の人が私のもとにやって来ても同じことを言う。「私のいとしい人ー 私は愛を捧げましたが、愛を貰っていません。私は騙されてきました。ごまかされ、裏切られた気がします」。そして、しばしば両者がやって来るー 夫婦が、父親と息子が、友人たちがやって来る。そして両者とも、「私は愛してきました」と同じことを言う。真相は、彼らの中で愛したことのある者は一人もいないということだ。いいかね、心から愛したら、必ず同じものが返ってくるー それはこだまを返し、戻ってくる。与えたものはすべて、必ず戻って来る。

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2008年7月16日 (水)

嫉妬と愛

前回紹介の書籍から、探究者の質問に和尚が答えました。

以下、「タントラの変容:市民出版社」より

タントラの変容―サラハの王の歌

愛する和尚、なぜ嫉妬はいつも、影のようにつきまとうのですか?

嫉妬は愛とは関係がない。実際、あなたの言うところの愛もまた、愛とは関係がない。その意味も知らず、その意味を体験したこともなく、あなたが使っている美しい言葉がある。あなたは愛という言葉を使い続ける。あまりにもその言葉を使いすぎて、自分がまだ愛を体験したことがないという事実を忘れている。それは美しい言葉を使う危険のひとつだ。`神゛゛愛゛゛ニルバーナ゛゛祈り゛といった美しい言葉を。あなたはそれらを使い続ける。それらを繰り返し続ける。少しずつ、まさにその繰り返しが、さも自分が知っているように感じさせる。

 愛についてあなたは何を知っている? 愛を知っていれば、こんな質問できない。愛において嫉妬は顕われないからだ。だから嫉妬が顕われているなら、愛はない。嫉妬は愛の一部ではない。嫉妬は所有の一部だ。所有は愛とは関係がない。あなたは所有したいと思っている。所有することで、あなたは強さを、自分の領域が大きくなったと感じる。他の人があなたの領域を侵害しようとすると、あなたは怒る。あるいは他人が自分の家よりも大きな家を持っていると、あなたは嫉妬する。‥愛していれば嫉妬は不可能だ。まったく不可能だ。

あなたは実のところ、あなたの女性、あなたの男性、あなたの友人と愛にない。愛にあれば、彼または彼女の幸福は、あなたの幸福でもある。愛にあれば、どんな所有も生み出さない。

 愛は完全なる自由を与えることができる。愛だけが、完全なる自由を与えられる。自由が与えられなければ、それは何か他のものであって愛ではない。それはエゴイスティックなトリップの何らかの型だ。

あなたは尋ねる「なぜ嫉妬はいつも、影のように愛の後についてくるのですか?」

絶対にない。愛はまったく影を作らない。愛はあまりにも透き通っているので、影はできない。愛は固形物ではない。愛は透明性だ。愛から影は一切生まれない。愛は影を作らない地上で唯一の現象だ。

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2008年7月13日 (日)

タントラの変容(書籍)

副題、サラハの王の歌、これは光明を得た女性と暮らしたサラハの王の歌をもとに、和尚が語った瞑想と愛の道のメッセージです。夫婦や恋人の問題を抱えた探究者の質問の核を掘り下げ、個々人の内的成長への鍵を明確に語ると紹介してあります。

表紙にはこうあります。

これはタントラのメッセージだ。

抑圧された生を生きてはならない。

表現の、創造性の、喜びの生を生きなさい。

自分の自然な生とともに

自発的にすすんでいけば

ある日、あなたは

神聖なるものの扉に到着する。

        - 和尚

タントラの変容:市民出版社(2000.12)

これもネットで見つかりませんでした。

人間は覚醒しない限り、愛にの人になれないことを語っています。和尚が紹介する覚者にはサハジョという女性がいます。光明を得るということは特別ではありますが、誰でも無限に近い時間をかければ達成することができるといいます。

多くの男女が抱える問題の本質について、この本から後日、色々と紹介させていただきます。

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2008年7月12日 (土)

自己証明

私たちは、なぜ他人のことが気になるのだろう。隣、近所さんだけでなく、芸能人、海外での出来事や報道‥。外の世界のことはエゴの肥やしになる。他人のしていることは自分もしたい。他人の持っているものは自分も持ちたい。他人の不幸を知ることで、自分の生活はまだましだと確認したい。それらはみなエゴ(自我)の肥料になる。

同時に自分はひとかどの人物になる(みせかけ上)ことで、他人の注目を浴びたい。称賛されたい‥要するに認めてもらいたいのだ。

エゴは自分を認めてもらうためには何でもする。たんに仲間になって喜びや悲しみを分かち合いたいと思っているだけではない。自分がここにいるよって誰かに自分の存在を知ってもらいたいのです。

今日は一休禅師の言葉から、和尚が解説した本を紹介します。一休さんといえば、テレビにでてきた、とんちこ坊主を連想しますが、実際は彼の生き方は周りの人から見れば普通ではなかったらしい。その辺は別の書を探してください。この本は1988年に購入したものですが、これも現在ネットでは見つかりません。あしからず。

以下、「一休道歌:めるくまーる社」から引用

(一休の詩)

みな人のねはん常楽しらすして

生死無常をなげくあはれさ

人々の嘆きとは何か? 彼らの惨めさとは何か? 彼らの惨めさとは、彼らが自我を創り出してしまったことだ。彼らは創り出さずにはいられなかった。なぜなら彼らは自己を知らず、そして人は自己なしでは生きることができないからだ。彼らは自分が誰なのか知らない。が、人は自分が誰なのか知らずに生きることはできない。存在することはできないー ではどうするか? 彼らは偽りの自己を創り出した。

本物を探究することは骨が折れるように思われる。人工的な、人為的な、まやかしの自己わ創り出すことはひじょうに易しく思われる。私たちは代用品としての自我を創りだした。それは私たちに私たちは自分が誰なのかを知っているという感覚を与える偽りのセンターだ。が、その偽りの自己は絶えず危機にさらされている。それは偽りだー。それは絶えず支えておく必要がある。

つねに憶えておくがいい、もしあなたが何かを絶えず支えねばならないとしたら、それは偽物だ。本物はひとりでに存続する。偽物は維持されねばならない。自分が支えなければ消えてしまうと絶えず心に留めておかねばならないとしたら、それはたんにそれが偽物であるという意味だ。

本物は立ち去り得ない。それはどこへも行きようがない。本物は在り続ける。考えてごらん。あなたは何百万もの生にわたって自己自身を見入ってはいない。依然それはそこにある。それはあなたの支えを必要としない。それはあなたの基盤そのものだ。それがあなたを支えている。 それがあなたの支えを必要とするはずはないだろう? が、自我にはあなたの支えが必要だ。

人間のエゴは自分の本来の顔、永遠であるはずの自分自身を知らないが故に、忘れてしまったが故に、作りだされたものだと和尚は云う。私たちが、他人と比較したり、しあわせを確認しあったりしているのは、本来の自分を知らないからだ。そういう視点で日常の物事をみてみれば、私たちの行動の多くが、どれだけばかばかしいものかに気づくのである。私たちは、自分が誰なのかをまだ知らない。しかし、愚かなこと、ばかばかしいことに気づいたら、それに力を貸すのは止めよう。そうすることで、より、本当の自分に一歩でも近づくことができるのだから…

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2008年7月 9日 (水)

必要性と愛

和尚がイエスについて副題:隠されてきたキリストについて語った書について紹介します。

私たちが、普段、愛しているというとき、それは相手が必要だから、相手に愛してもらいたいから、相手に認めてもらいたい、受け入れてもらいたいということの裏返しの意味で使うことが多い。私たちのエゴは、まず、誰かに自分の存在を認めてもらい、愛してもらいたいのだ。そういう意味では、この世は愛されたい人の集まりであり、お互いに必要関係で支えられているのが人間である。しかし、イエスの愛は与える愛である。少なくとも、私たちが目指すところはイエスのように愛の人になることのようにも思う。

「愛の錬金術、下巻:めるくまーる」より

誰も自分自身をみようとしない。その眼は他者に向けられる。その耳は他者に傾けられる。その手は他者のほうに伸ばされる。誰ひとり、自分自身に向かう者はいない。誰ひとり、自分に耳を傾け、自分を見ようとする者はいない。

愛は、あなたが結晶した霊魂を<自己>を得たときに起きる。自我があってはけっして起こらない。エゴは愛されたいと欲する。なぜならそれがエゴの必要とする食料だからだ。

あなたは自分が必要とされる人間になるために愛する。あなたは愛しているから子供をつくるのではない。自分が必要とされるためだ、こう言ってまわるためだ。

「私が果たさなければならないたくさんの責任を考えてもみてください! 私の負っている義務の大変なこと! 父親であるというのは大変なことなんです。母親であるというのはたいへんなことなんです‥‥。」

これはただあなたのエゴを美化するだけだ。

この必要とされる必要が落ちないかぎり、あなたは孤であることはできない。

ヒマラヤに行ったとてあなたはそこに社会を創り出す。そしてもしこの必要とされる必要が落ちたら、どこにいようとも、市場の真ん中に住もうと、都会の中心地に住もうと、あなたは独りでいる。

そて、このイエスの言葉を理解するよう努めなさい。

イエス、言う

「選ばれて独り立つ者は幸いである

その人は<王国>を見いだすだろう

なぜなら

人はそこから出てきて

ふたたびそこに戻ることになるからだ」

この言葉ひとつひとつの内部に浸透してゆくがいい。

「選ばれて独り立つ者は幸いである‥‥」

独り立つ というのはどういう人だろう?

必要とされる必要が落ちてしまった人、あるがままの自分で完全に満足している人だ。「あなたには存在意義がある」と他者に言ってもらう必要のない人だ。その存在意義は自分のなかにある。それは他者から与えられるものではない。彼はそれを物乞いしない、彼はそれを求めはしない。彼の存在意義は彼の存在そのものからくる。彼は乞食ではない。彼は自分独りで生きられる。

あなたは自分独りで生きることはできない。

我々は独りでは生きられない。十分に愛された環境で育たない限り、自分を偽ってでも誰かに受け入れたいと思うのだろうか? 愛゛の人になるためには、まずいつも携えているエゴを捨てなければならない。しかし、我々はこの必要関係のなかで、何かを学ぶことからしか始められない。

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2008年7月 5日 (土)

本質と人格

人格とは両親や社会によって育て上げられてきた性格である。大衆とはこれらの人の集まりをいう。テレビで誰かが批評する、それを見るひとは無意識の内にその比評者の考えに感化されていく。多くの人たちが視るテレビの報道がそれを聞く人たちの考え方をコントロールしてしまうことは恐ろしいことだ。民主主義だと言いながら、一部の人たちの意見や考えに賛同する人たちが多ければ、それが例え危険な思想であろうともあたかも正しいことのように思われる。

一部の権力を持つ人たちの考えに力を与えるのは大衆だ。そして大衆はその人たちの思い通りの社会づくりに手を貸していく。政治家のやってきたことはまさにそれだった。

大衆でいてはいけない。個人にならないと社会は決して良くはならない。究極的には社会はどうでもいいが、あなたが個人の才能や可能性を伸ばし、開花させることなく終わってしまうのはとても残念なことなのだ。そうして、埋もれて生きている人たちがどんなに多いことか。いや、詐欺師でさえ、自分を見失っている社会の最大の犠牲者なのかもしれない。

前著「黄金の華の秘密」めるくまーる社からの和尚の言葉をひとつ

あなたの人格は、たくさんの偽りの顔から成っている。

では本質とは何だろう? 本質とは、仮面をつけていない、あなたの本来の顔のことだ。本質とは、生まれた時に、あなたが世界に持ち込んだものだ。本質とは、子宮のなかで、あなたとともにあったものだ。本質とは、神ーあるいは全一性、全体、<存在>、なんと呼んでもいいーによって、あなたに授けられたものだ。本質とは、<存在>からあなたに授けられた贈り物だ。

人格は社会、両親、学校、大学、文化からの贈り物だ。人格はあなたではない。それは偽物だ。私たちはこの人格を磨き続け、本質を完全に忘れ去っている。この本質を想起しない限り、あなたは虚しい生を送ることになる。なぜなら、本当の生は本質的なものから成り立っているからだ。本当の生とは本質を生きることだ。

人格とは、世間がその本質の上に押し付けるものだ。世間は本質をひどく恐れている。なぜなら、本質はつねに反逆的だからだ。本質はつねに個的なものだからだ。そして世間はいかなる<個>をも必要としない。それが必要とするのは羊だ。

‥社会は服従を求める。社会は効率を求める。あなたが機械的になればなるほど効率はあがる。もっといきいきしているときには、あまり効率をあげられない。機械は人間よりも効率がよい。社会はすべての人間を機械におとしめようと努力する。人間を機械におとしめるにはどうすればよいか? もっともっと無意識にさせればいい。もっともっとロボットのようにならせればいい。人間の意識から本質を完全に消してしまえばいい。‥夫にしたり、妻にしたり、使用人や、社長や、あれやこれやにしてしまえばいい。が、けっして本質的な自己にならせてはいけない。それを許してはならない。なぜなら、その本質的な自己は神以外の誰にも従順ではないからだ。

こういったタイプの存在は、現行の社会にとってひじょうに都合の悪いものになる。なぜなら、この社会は人間の必要を満たすようにはつくられていないからだ。それは人間を搾取するようにつくられている。それは人間に応じたものでも、人間の成長にふさわしいものでもない。社会は人間の成長を助けようとする意思がない。

なぜ、社会が人間の成長を妨げようとするのだろうか? それは多くの人たちが権力を握りたがり、相手を支配したがるからに他ならない。自分の都合の良いように相手が動いてくれる、思い通りに従ってくれるとエゴは喜ぶ。誰もがそうやって、相手の能力や可能性を摘み取ってきた。自分がそうやって搾取されてきたから、今度は自分よりさらに弱いものを支配しようとする。そうして悪循環が続いてゆく‥。

この悪循環を終わらせるのはあなたの感性であり、あなた自身の意見なのだ。誰にいわれるのでもなく、あなた自身の中から自発的に出てきた生きた言葉、本質という素顔になることが求められているのだ。

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2008年7月 1日 (火)

男と女(3)

「英知の辞典」和尚:めるくまーる社を紹介します。

これは和尚のエッセンスが詰まった本です。和尚を初めて読まれる方には特にお勧めできる本です。その中から少し‥

英知の辞典

例えば、男性は女性よりも肉体的であり、男性は女性より外交的だ。女性のほうがより、心理的であり、内向的だ。

男性たちは結婚をしたほうが幸せになるが、それは結婚をしていないと、彼らはただ孤独にしか感じないからだ。結婚していれば、たとえその結婚が惨めなものであっても、まだ孤独でいるよりはましだ。少なくともそこにはあなたの心をふさいでおく何かがある。男性は内側に入らなくていいように、目を開けたままでいられるように、いつも外側の何かで心をふさいでいたい。

 女性はそれほど外側のことには興味がないので、結婚をしていないときには、孤独というよりは、自分が一人であるのを感じる。そして女性はもっと自律的なので、自分の独りあることを男性よりももっと楽しむことができるー 女性はある意味でもっと利己的だ。私はこの言葉をきわめて肯定的な意味で使っているー 女性は利己的であり、自己中心的だ。男性は他社中心であり、彼はいつも他人のことを考えている。女性はもっと自分のことを考える。せいぜい近所のことに興味を持っているぐらいのものだ。

男性は女性のおかげで彼は地に足を着けていることができる。女性は大いに地上的であり、地に着いている。世界のすべての神話のなかで、女性は大地を象徴してきた。女性は彼に大地に降ろす根を与える。さもなければ、女性たちがいなければ、彼は大地を失い、根を失い、宙ぶらりんになっている。女性は彼に帰る場所を与え、女性は彼の我が家になる。女性がいなければ、彼は宿なし、放浪者、流木だ。‥‥ 女性は暖かみを与え、生を与え、彼をくつろがせ、彼がひとつにまとまっているのを助ける。

だが、女性は結婚するより、独りでいるほうがもっと幸せになることができる。それは女性が男性なしでも自分を根付かせることができるからだ。男性は女性にとってそれほど必要な存在ではない。女性のほうが男性よりももっと自立することができるー 女性のほうがもっと自立している。

女性のほうが自立の力を備えているので、男性はいつの時代にも女性を他のやり方で依存させてきたー 経済的に、社会的に。自然な状態では女性のほうが自立する力を備えているので、それが男性と彼のエゴを傷つける。

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