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2008年6月

2008年6月29日 (日)

自然に還ろう

 エゴにはすべきことがたくさんある。といっても、エゴが自己満足するために必要なもの、すべきことがたくさんあると言っているのだ。それは人間で作られる社会がより豊かに、便利になっていくために必要なことだと言っている。しかし、それは単なる世俗社会に過ぎない。

 人々のエゴを満足させるために作られる社会は誰もが住みよい社会では決してあり得ない。ということは、人々は自分の自分の家族の自分の住むふるさとの自分の住む国の生き残りをかけて、他の人々と戦い続けて勝ち組にならないと、豊かな生活はできないことになる。人間社会も言ってみれば修羅の社会であり、動物の世界とそう変わりはないではないか。

 自然の脅威に自分たちの生活がいつ脅かされようと、それは誰の責任にすることもできないのに、国が当然守ってくれるべきなのだという幻想を抱いたりもする。そもそも自然を征服しようとか、自然をコントロールしようとか考えだした連中は一体何者なのか?

 さまざまなストレスを抱えて精神の病にかかっている人たちは自然を征服しようとしてきた人たち、コントロールしようとしてきた人たちの犠牲者に他ならない。

いま、求められるのは、豊かな生活などではなく、如何に自分らしく、自然に生きるか、いかにお互いが搾取されずに生き、お互いを意図的に傷つけあわずにしあわせになれるかであるとおもう。

 世俗の苦しみの不毛さに気付かない人たちは、世俗に執着し、湧き起こる生エネルギーをしあわせの創造のために使わず、勝ち残り競争のために使い続ける。

 自然に還ろう。人間のエゴに振り回されず、その生エネルギーを自分自身の創造のために使われるなら、もっと住みやすい社会になれるはずなのに。

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暗闇から光へ(2)

不安定な基礎の上に建てられた家、それはいずれは崩れ去らねばなりません。著者はよく暗闇から光へと向かう人間の意識の道筋を、海から発生した一滴の滴が海に還る様子に例えたりしています。二度生まれ変わる必要があるというのも、一粒の種子にたとえて、種子が一度死ななければ芽を出すことはないというふうに述べています。

ディヤン・スートラ―瞑想の道「ディヤンスートラ」から引用です。

あなたの探求は至福に向かっている。神性を探究する人とは誰もいない。あなたの希求は至福へと向かう。至福とは神だ。ーわたしは完全なる至福の状態を神と呼ぶ。完全な至福の境地にある瞬間、あなたは神性だ。つまり、内側に欲望が残っていないとき、あなたは神性になる。完全なる至福とは、欲望が残っていないことを意味する。まだいくらかの欲望があったら、依然としていくらかの惨めさもある。もはやどんな欲望もないとき、あなたは完全なる至福の中にあるー そのときはじめて、あなたは存在とひとつになる。

「存在」とは、この世界、宇宙そのもの。およびこの宇宙を開眼したらしめている根本原理とでもいうもの。この一回の生で死ぬまでにやり残したことなく終わることができる人は殆どいない。次に生まれ変わったらあれをしたい、これをやりたい‥。欲望が残っているとはどういうことなのか?

それは自分に欠けているがためにそれを補うための何かを必要としているということだ。お金がたくさん欲しいのも、それで必要ななにかを満たしてくれる。安全を保証してほしいのも、自分だけは死なない存在であってほしいから。愛情が手に入らなくて、さまざまな形でそれを奪い取ろうとするのも、自分に重大な何かが欠けてるから…。

本当は何一つ欠けてなどいない。本当の自分、時空間から自由な永遠の生とでもいうもの、永遠の魂があるのなら、何も欲望したりはしない。その生に向かうが故の、個別に生まれた人生ではないのだろうか。

ある者はイエスを見、ある者はクリシュナを見るー すべてはマインドの作りごとだ。神は、目に見えるいかなる形も持たない。神性には、顔も動きも形もない。意識が形なきものに入り込む瞬間、それは神性へと入る。

あなたは神性と出会うのではなく、それとひとつになる。あなたが片側に立ち、神がもう一方に立って対面するといった出会いはない。一滴のしずくが大洋に落ちるように、あなたが無限なる存在に溶け入る瞬間がやって来るのだ。その瞬間の体験こそ、神性の体験だ。あなたは神に出会ったり、見たりするのではない。一滴のしずくが大洋に落ちるときに感じるように、あなたは存在と溶け合う体験をする。

ちょっとコーヒーを飲んで一休みします。

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2008年6月28日 (土)

暗闇から光へ(1)

イエスキリストが人々のことを迷える子羊と言った。人は暗闇の中で生まれ、光を求めて今という時を手探りで歩いている。私たちがいまここに生きている所は仮の住処であり、仮の姿である。そもそも砂の城を作ることしかできないこの世界に、私たちは何を求めて生きているのだろうか。少し理解のある人は、「それは感動を味わうためなのだ」と言う。もっと理解のある人は、「自分たちが成長するために」と言う。

動物はほぼ無意識の生を送る。その中でも人間は、意識の光をさまよい求め続ける。それはこの時空間の世界で、本来の自分を表現するためでもある。本来の自分とは、そこにある永遠の生とは何か?

今日は魂が暗闇から光へ向かう必要性は何か? という問いに答えた名言を紹介します。質問者は「なぜ、魂は存在と溶け合う必要があるのですか?」と問うところから始まります。

ディヤンスートラ:市民出版社より

魂が神性へと消え去らねばならないのは、生というものが、痛みや苦悩を通しては決して満たされないからに他ならない。別の言葉で言えば、生は常に、苦悩を受け入れられないということだ。生は常に至福を求める。苦悩することは、神性から離れることだ。あなたが神性とひとつになったら、生は至福となる。

だから、これは神や神性の問題ではない。あなたが苦悩から至福へと向上する問題であり、内側に存在する暗闇から光へと向かう問題だ。

だが、惨めでいることに満足できる人などいない。惨めさは、まさにその性質からして、あなたを自分自身から引き離す。至福は、まさにその性質からして、あなたを自分自身に引き戻す。世俗は惨めなものであり、神性は至福だ。神性と溶け合う必要性は宗教的な必要性ではない。神性と溶け合う必要性は根本的な必要性だ。

ちょっと一休みしましょう^_^;

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2008年6月21日 (土)

男と女(2)

受動性と能動性

生物学的な身体構造の違いから、女性は受動的であり、男性は能動的であるということが言える。

女性的な精神は、受動的であるために、いつまでも「私待つわー」と言えるし、実際にいつまでも待っていられる。ものごとが起こるままに任せるためにそれは無気力や怠惰な状態を惹き起こしかねない。彼がやってくることを、そのうち私のほうにやってくるわと呑気に構えているのが好ましくない受動性なのだという。

好ましい受動性とは、注意深く、意識を研ぎ澄ませながら待つということ。彼が来るのを今か今かと目を戸口に釘づけになり、耳をとぎ澄ませて待っている状態をいう。そのときの彼女は生き生きしている・

男性的な精神は散乱であり能動的だという。男性の精神は絶えず周囲に気をそらしている。例えば彼はこの女、あの女と恋人を次々に変えてゆくが真実の愛に触れることは決してない。心から身をゆだね合うことがなく、表面的な付き合いで終わる。せいぜい肉体と肉体の性的なふれあいにとどまっている。

これを好ましい方向に向けると集中した活動、一心不乱な活動に集中するのだという。

女性的な精神は一人の男で満足し、どこまでも一途に掘り下げてゆく。そのため、一人の男性に時間をかけてまごころに触れ、魂にふれてゆくのである。女性的な精神には待つという質がそなわっているため時間をかけて相手と理解しあってゆくのである。

これを一人の人間が両性の精神の良い側面を取り込んだらこういうことになる。

前著:黄金の華の秘密より

「活動的になりすぎてはいけないし、怠惰になりすぎてもいけない。穏やかに活動し、いきいきとくつろぎなさい。中間にとどまるがいい。あなたの行為には待つという質がそなわらなければならないし、あなたの待機には活動の質がそなわらなければならない」

周りの異性から学ぶことは、そこから自分の内面にある異性を引き出すきっかけになるということ。そして、相手を変えるのではなく、自分が変わっていくことでひとは進化を遂げていく。

いいかね、そこには二つの出会いがある。最初の出会いはあなたの内側にいる男と女の出会いであり、第二の最終的な出会いは、全一で円満な人間としてのあなたと<全体>との出会い、究極の出会いだ。それは永遠のものだ。ひとたびそれが起これば、あなたは死を超える。それが元に戻ることはありえない」

永遠の生の道のりは果てしない。

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2008年6月13日 (金)

人生は夢

何かに拘り続けている限り

人々は お互いに傷つけあう

幾つものステージで演じてきたことさえ

忘れてしまった人々は

ひと握りのしあわせなど

はかなくももろいものだと

そのときは思いもしない

人生は夢

そう言うことで

ひとつかみの時の流れが

こころのなかで

ぐるぐると

渦を巻き始めた

人生は夢

永遠に閉ざされた時間の闇の中で

ただひたすらに祈る者がいる

人生は夢

と  ささやく者がいる

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2008年6月11日 (水)

人生の波

人生における六つの波、「エンライトメント」:市民出版社から紹介します。

エンライトメント―ただひとつの変革 神秘家・アシュタヴァクラ

人生には六つの波がある、とアシュタヴァクラは言う。これら六つの波とは、飢えと渇き、悲しみと幸せ、誕生と死のことだ。飢えと渇きは肉体における波だ。これらは肉体の欲求だ。暑い天気だと、涼しいときよりも喉が渇く。これらは肉体の欲求であり、肉体における波だ。飢えと渇きは肉体のものだ。悲しみと幸せはマインドのものだ。だれかがあなたのもとを去るとき、そこには不幸がある。なぜならマインドはしがみつき、執着を生み出すからだ。愛する人と会う時、そこには幸せがある。その愛する人が去るときは不幸だ。気に食わない人と会う時は不幸で、その気に食わない人が去ると幸せだ。これはマインドにおける波だ。

そして誕生と死ー 誕生と死は生命エネルギーにおける波だ。誕生の瞬間には呼吸は始まり、死の瞬間に呼吸は止まる‥

呼吸とは誕生だ。呼吸とは生命のプロセスを意味している。人が死ぬと、呼吸は止まり、生命の過程が停止する。これは瞬間ごとに続いている。息が入ってくると、生命は入ってくる。息が出ていくと、生命は出ていく。誕生と死は毎瞬の出来事だ。あらゆる入息は生命だ。あらゆる出息は死だ。これらは生命エネルギーにおける波だ。アシュタヴァクラは言う、これらは六つの波であり、あなたはこれら六つの波を超えているー あなたはこれらの観察者なのだと。

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2008年6月 7日 (土)

生というもの

生とは何か? を問う時には同時に死とは何かが問われる。生きていくのがつらいとか、苦しいとかで死にたくなったりするのは、それだけ生に執着心があるからに他ならない。ほんとうに生きるのがどうでもよいのなら、人は自殺などを考えたりしないだろう。生と死は生の川の流れのまさに両輪なのだ。

普段、私たちは自分の時間に限りがあることを意識してはいない。けれど、この限りある時間というものを意識していないと、人生はそれほど実りのあるものではないということがわかってきた。何か目標を立ててやろうとするとき、それは自分からではなく、誰かに言われてすることがよくあった。その時、自分には無理だとよく思ったものだ。無理なのは目標も立てずにだらだらと過ごしてしまう自分自身の態度が原因だった。人は切羽詰まったときでないと、その潜在的な能力を発揮できないものだ。

生きるということも、時間を限定してこころしてかからないと、死ぬ際に後悔してしまう。

もし、自分に残された時間がわかっているのなら、もっと生きてる時間を大切にするのではないだろうか? 親との出会い、友達との出会い、恋人との出会い‥そして、愛する人との出会いの大切さ、貴重な時間というものは、失ってみて初めてわかるというのは何とも皮肉な話である。

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