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2008年5月

2008年5月31日 (土)

男と女(1)

男と女は生物の性として相容れない、と同時に相補的である。

お互いにないものを持っているから、それに惹かれるのである。しばしば脳梁の太さの違うことから、考え方、感じ方にそれぞれの性に特有のものがあるのだといえる。ということは、生まれ変わりの生を思う時、それぞれの性の選択で、学ぶことがかなり違ってくるということでもある。今生とは違う生を生きることでひとは人間についてのトータルな学びを得るのであろうか。この双方の性をどれだけ経験しているかで、今生は男なのに女性的だったり、女性なのに男っぽかったりする。

また、ひとは、自分のなりたいものに遅かれなってゆく。

いま憧れの人がいたら、次の生はそのイメージにより近くなった自分になっている確率が高い。もっとも、個人的な生まれ変わりがあるというより、集合的魂の生まれ変わりのなかで、個人的な一度限りの意識が生を受けるという見方が多勢ではあるが‥。

 経験を積んだ魂は、生まれ変わりによって得た自分の中の男性性、女性性のイメージを統合し、より意識領域を拡大させていく。いきつくところは両性具有だ。経験を積んだ魂は、現世において、自分に相応しい異性の恋人をみつけることがより難しくなってくる。それは自分がより両性のこころをともに内面化させていることの証でもある。それだけ自分が成熟したのだと思えば良いし、こころが寂しければまだ内面化がそれほど進んでいないものと思わざるを得ない。

ひとは異性に惹かれ、異性を通して、自分の中の異性像をより意識化することにより、おのれの魂の裾野を拡げているということだ。しかし、その道のりは遠い。

霊的な成長を考えるとき、いわゆる男性原理と女性原理がそれぞれの性にどのように影響しているのか理解することは大事なことである。なぜなら、自らの性の原理に翻弄されて多くのひとは人生をより動物的に生きているからである。性はその動物性を人間生活を通して神へと昇華させるのがおおいなる目的なのであるから‥。

では男性原理とか女性原理について、次に考えてみたい。

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2008年5月24日 (土)

永遠の一瞥②

時間とともにあるこの世界は、自我(エゴ)なくしては生きてはいけない。エゴとは欲求のことだと言った。未来に対して何かを実現するという目的があって、その目的のためにエゴがある。しかし、このエゴのために、永遠の瞬間を見逃してしまっている。

はじめてみる景色、山や見知らぬ土地で見る夕日や朝やけに感動したりするのは何故だろう? それは初めての体験だから感動するのだろう。そのとき、わたしの中にエゴはいない。

「光と闇の瞑想:市民出版社」から引用です。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4881781561/nifty0b5-nif1-22/ref=nosim

あなたが静寂であるとき、エゴはない。なぜなら、静寂であるとき、マインドは機能していないからだ。それこそが沈黙の意味だ。

初めて見る光景の前では、私のこころ=マインドは機能を停止する。そのとき感動の瞬間を垣間見る。

しかし、静かになるということは、たまにしか起こらないし、しかも、ほんのしばらくの間だけだ。だからこそあなたは、沈黙の起きる状況を素晴らしいものと感じるのだ。そしてそんな状況を求めるようになる。そこで山へ行き、朝、太陽が昇るのを見つめる。すると突然、歓喜が湧き起こる。あなたは至福を感じ、美が自分の上に下るのを感じる。それはいったいどういうことか。静かな朝、静かな日の出、そして木々の緑、山‥‥そうしたものによって内側のおしゃべりが停止するのだ。その現象が偉大であるからーまわり全体がかくも美しく、平安で静寂であるからしばらくの間、あなたは停止する。その停止のなかで、あなたは無エゴ状態を認識する。むろん少しの間だけだ。

これはいろいろな状況で起こる。セックスの中でも起こるし、音楽の中でも起こる。自分を圧倒するような偉大なもののなかでは、いつものおしゃべりも、しばらくの間押しやられる。

エゴがないときには微妙な至福が感じられるというのだ。

その至福は外側に由来するものではない。山や、日の出や、美しい花や、セックスに由来するものではない。それは外側に由来するものではない。外側はたんに機会をもたらすだけだ。-それは内側に由来するものだ。だから外的な状況を何度も何度も繰り返したら、それは現れなくなる。免疫になってしまう。‥‥慣れっこになってしまう。

自分を至福へと導く感動の体験は外側に由来するものではない。このことはそれによって自分の何かが活性化されたということだろう。誰かに、何かに自分の至福をつい依存してしまうけれど、その至福は自分の内側に元々存在するものなのだろうか?  だとしたら、このエゴが取り除かれる瞬間に人間存在の意識の秘密があるようです。エゴの無いひとときが、永遠に続く瞬間であるならば、そこに生きる魂の本質があるのだと、いつしか私は確信していました。

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2008年5月18日 (日)

永遠の一瞥①

その一瞬に時間が止まったような感覚、そんな体験をしたことはありませんか?

心(マインド)は自我の欲求です。欲求があるというところに時間があります。大雑把に言えば欲望=時間ということです。私たちは作り出された時間のなかで、自分たちの様々な夢を描き、実現しているのに過ぎません。その経験が自我を本当の自己=永遠の存在へといざなっているのです。一度でも、時間のない体験をしたならば、それをもう一度と願うでしょう。残念ながら、そう願えば願うほどその体験は遠ざかってしまいます。

永遠の一瞥を得る瞬間について、幾つか紹介していきます。

「瞑想ー祝祭の芸術」めるくまーる

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4839700095/nifty0b5-nif1-22/ref=nosim

深い愛のなかでは、どのようにか欲望が消える。まさにその瞬間だけで充分になる。そこには未来への欲望は一切ない。私が誰かを愛したとすれば、まさにその愛の瞬間には心はなくなる。その瞬間は永遠だ。私にとって、この瞬間には未来はない。私は未来にはまったくかかわっていない。そして過去もない。私はそれによって乱されることはない。思考過程はその実存の瞬間にすっかり止まってしまった。突然、その無欲の瞬間に扉が開く‥。

ゆえに、愛はしばしば神なるものを一瞥する。たとえわずかな間でも、ほんとうに恋したことがあれば、あなたはこの部屋のなかに長くはいられない。あなたは、すでに<彼方>なるものの味を味わったのだ。

誰かを本当に愛することは私たち人間にとってほんの一瞬、ひとときに過ぎません。けれどそのひとときの、現在という瞬間で満たされている至福のひとときを垣間見た者は、その後の人生におおきな影響を与えてしまいます。そして、私は、ふいにやってくるそのひとときを期待せずに待ってしまうという矛盾のなかで生活しているのです。

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2008年5月11日 (日)

依存

人間は人の間と書いて、お互いに支えあわなければ生きてはゆけない存在です。

普段、私たちは他人の評価や讃辞を気にします。それは人間には社会的に認めてもらいたいという承認の欲求があるからです。誰かに受け入れてもらえるということが、自分自身の受け入れにつながり、受け入れられたことによって、そのひとは自身の愛情を育むことができ、他人に対しても愛情表現が示せるようになります。この受け入れに失敗した人たちが自分の子供や子孫にまで悪影響を与え続けることになります。

現代は何事も自分の要求ばかり通そうとして、相手の身になって考えることができない人が増えているのも、まだ自分自身が十分に愛情を受けてきてこなかったのではないかと思えてならなかったりします。それは核家族社会のひずみとして、親だけの愛情教育は荷が重過ぎるということ、親自身に問題がある場合、どうにもならないことなどが考えられます。

私たちが生きていけるのは、家族や仲間、身近な人たちの支えがあるからだと思うのですが、それは所詮、依存関係に過ぎません。依存するということは、自分にとって相手が必要であるということ。特定の誰かが゛いないと、心が空虚で何も手に付かなくなるといったことでしょうか。

必要とする、されるという依存関係がうまくいっている間は、何も問題はありません。しかし。病気や事故などで必要な人を亡くしたりしたら、それまで彼や彼女に支えられてきた人は、その後どうやって生きていったらよいのでしょうか。生きている現実は、常に流れています。その人生のなかでいつも自分が必要としている人が居てくれるとは限りません。また、自分に何かあって必要とされていた人と別れねばならなくなったときの苦しみを味わうこともあるでしょう。

人生は楽しい時もあるけれど、苦しみがベースとなっていることを理解しなければなりません。それは人間が動物と神の中間にいるからです。この人間ゆえの苦悩の現実をまず直視しないと先へは進めません。

苦しみをベースにしている私たちは、必要としている人がいないと生きていけないという依存関係からすこしずつ脱却していかなければならないと思います。そのためにはもっと自己の内面を充実していかなければなりません。そのための世の中であり、自分の人生なのです。いつまでも周囲の人間関係に自分のしあわせを依存し続けていてもそれは、至福につながるものではありません。この生だけが良ければ゛それでいいという考えであればそれでいいのかもしれません。しかし、ひとは自分の中の本当の自分自身に行きつくまで生まれ変わる存在です。こころに留めたいことは、人は依存関係から脱却するということが、真の愛情豊かな人になるための指標になっていということです。

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2008年5月 3日 (土)

生の不確実性

およそ生きもの全ては生かされている。しかし、自分で生きていると思っている人は多い。そのような人は未来に希望し計画を立て、夢があるから生きていけるという。それはそれで結構です。但し、自分の身体は借り物であることを忘れないことが肝要です。老後の安心のために健康保険制度があるけれど、システムに問題がある国の制度はなぜ強制されないといけないのだろう? それよりも将来の安心、今の安全にしがみつくあまりに、今を生き生きと生きていないひとが結構見受けられる。あなたは安全にすがりつくために、苦労を味わいたくないがために生きているのだとしたら、一生で味わえるはずの感動の十分の一も得られないのではないだろうか。残念ながら自分にも、身の安全を守るために、自分から変わろうとしないこころがある。

前著、黄金の華の秘密から

生で唯一確かなのは、それが不確かなものであるということだけだ。人は不確かさより他には何も当てにすることはできない。

私たちは、人の事故死や病死を他人事のようにみてしまう傾向がある。しかし、これはいつ自分に起きてもおかしくない。そのように生とは不確かなものだ。この明日がどうなるかわからない覚悟で今日を生きられたら‥

人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。ものごとが良い方に変わっていくときでさえ、恐れる。彼らは新しいものを恐れる。心というものは古いものには実に賢く振る舞えても、新しいものに出会うと必ず当惑するものだからだ。心は新しいものをイロハから習わなければならない。

例えば、いま幸せを手にしているひとはより自分の環境を守ろうとして、かたくなになる。周りがどうあろうと、自分の家族、自分の職場、自分の国さえよければと思ってしまう。しかし、それはずっと続くものではあり得ない。

‥彼らはどんな変化も毛嫌いしている。いいかね、この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。あなたは変わりたくない。あなたは変化を恐れている。なぜなら、変化とともに新たな責任、新たな挑戦が生まれるからだ。そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。古いものならうまく扱えるし、手ぎわよくさばけるから、古いものに寄り添っているほうがましだ。古いものは意のままに操ることができる。新しいものはどうなるかわからない。思いどおりになるかもしれないし、ならないかもしれない。

学ぶことができるのは子どもたちだけだ。子どもたちには何も過去がないので、しがみつくべき古いものがいっさいないので、いつでも嬉々として学ぶことができる。大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。

イエスキリストが「幼児のようにならなければ神の国へは入れない」といったのも、自分たちがそれまで溜めこんできた思考パターンや生活様式、文化などに縛られてしまっているからです。

生において確実なものはなにもない‥ そう思うことで、自分の中に大事にしていた宝物が色あせてくる。ひとは成長するためには、失うものがあることを避けては通れない。何も失いたくないと思うこころが、人生をつまらないものにしてしまう。ひとは幸福なとき、ほとんど考えることをしないものだ。それはそれでいい。けれど、不幸なとき、悲しみに打ちひしがれたとき、そのつらさのなかでこそ学ぶべきことがたくさんある。その苦しみは、自分が変わらなければならない試練の時なのだ。生は流れる、その流れとともに自分が変わることを恐れてはいけない。それが自分も生の流れそのものになり、自分の人生を真に生きるということだからだ。と、今の自分にも言い聞かせているのです。

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