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2008年4月

2008年4月27日 (日)

責任

人は何か不利益があるたびに、それは誰の責任かと問う。功利的、打算的な物差しで人を見ないなら、自分の生に全ての責任があることがわかります。以下、「黄金の華の秘密:めるくまーる社」から紹介します。

黄金の華の秘密

責任とはなんだろう? 真の責任は神への責任に他ならない。あるいは、真の責任は自分自身の本性への責任に他ならない。あなたは社会や教会や国家に責任を負っているのではない。あなたに家族や社会に対する責任はない。あなたが責任を負わねばならないのはただひとつ、それはあなたの本来の顔、あなたの本来の実存だ。その責任を取ることで、他のすべての責任はおのずと果たされる。

自然になりなさい。自然な人間は責任を負うことができる。なぜなら、彼は感応するからだ。自然ではない人間はけっして感応しない。彼はたんに反応するだけだ。反応とは機械的であるという意味であり、感応とは、臨機応変に応答することをいう。

感応とは何か? 感応とは、その瞬間に起こるプログラムされていない生の体験だ。あなたは花を見ている。観念で目をふさがれることなく、しっかり花を見つめている。あなたはこの花を、その現前を見ている! 知識はすべて脇によけられている。こころは感応し、頭は反応する。責任はこころから生まれる。

思考がないと、エネルギーが内部に蓄えられて、そのレベルがどんどん高くなってゆく。あなたは一種の飽和状態になる。その満たされた状態において、こころが感応する。そうなったら生は詩的になる。そうなったら生は音楽になる。そこではじめて、みずからの言葉を行為によって実証するという奇跡をおこなうことができるようになる。そうなったら「君を愛しているよ」というだけでなく、あなたの存在そのものが愛の証となる。そうなったらあなたの言葉は無力なものではなく、そのなかに魂を宿すようになる。あなたの言葉と行動が一致するとき、あなたの言葉と行動がちぐはぐにならないとき、あなたの言葉が誠実さで満たされるとき、あなたが、自分の言った通りのものになるとき、-そのような生のみが生きるに値する。

ここで、著者は何も家族や国家に責任がないといっているのではありません。自分自身の生きざまに責任の取れないでいる人が、どうして家族や友人、国家に対して責任を取ることができようか、と言っているのです。自分自身を偽らず、自分に対して誠実に生きることが望まれます。誤解しないように、いつも正直だとか、欲求のままにという意味でもありません。責任ということも、自分自身を愛しているのかどうかを問われています。それはいつも自分自身を見つめることからでしか始まりません。

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2008年4月20日 (日)

未成熟

今の社会は未熟な大人が多いように思う。

未熟な大人とは、誰のことをいうのか? ひとつの問題提起として取り上げたいのである。

未熟な大人とは、現実を直視しない、自分の願望や夢ばかり追い求めて、足元を顧みることのない人のことをいう。

現実を直視しないとは、例えば欲しいものがあれば、お金を貯めてから普通買うものです。なかったら我慢します。けれど、今は消費者金融にお金を借りてでも先に物が欲しい、そんな人が増えています。

自分の夢や願望といったものは、まずその目的を叶えるためにはどうすれば良いのか、現実をしっかりと見据えねばなりません。ひとりよがりでは何も実現しません。周囲の人の意見や考え方との相違なども調整しないといけないでしょう。小さな夢ひとつ叶えるにも相手がいることです。相手がどう思っているのか、どうしたいのか、そういったことへの配慮が欠けているひとも増えています。こういうひとたちは未熟な大人といえます。未熟な大人のひとたちは、また、自分たちが未熟であることを認めたがりません。

色んな意見があっていい、だから自分は自分の考えでいく、という人もいます。しかし、この自分の考えというものほど怪しいものはありません。どこからその考えがでてきたのか? 前の首相にそういう人がいましたね。国民受けすればいいというものではありません。国の借金が200兆円を超えています。それを今、一生懸命に戦中を生き抜いてきた世代にまで肩代わりさせてどうするのですか? 借金の多くは政治家や官僚の地位保全や私腹を肥やすために無駄に積み上げられてきたものではないですか?  いま、借金返済のためにやるべきことはほかにいくらでもあります。イラクへの自衛隊派遣にしても、憲法に違反しているにも関わらず、解釈の誤魔化しによるごり押しでなあなあにされてしまっています。大人なら、憲法の改憲を国民に問うてから、堂々とやったらいいではないですか。一体誰のお金を使っているのですか?

こんなふうに現実を直視し、配慮もしないで、自分たちのやりたいことだけ先に進めて、結果に対して無責任なひとたちはみんな大人として未熟です。また、そんな人たちを国の代表者に選び続けてきた人たちにも問題があります。まず、自分たちから大人らしい自覚をもって生きていきませんか? 他人事と考えるのはそれこそ無責任ですよ。

今からでも決して遅くはありません。大人らしい大人の自覚でみんなの力で住みよい国づくりの一員でいませんか?

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2008年4月19日 (土)

友愛

 最近政治家に失望している人は多いと思います。けれど、そもそも政治家に何を期待するつもりなのか? いったい誰を信じて生きていこうとしているのか? 人を信じる前に自分自身を信じることから始めないといけない。自分を心から愛していかないといけない。そこからしか、本当の人との友情、信頼はあり得ない。責任を取る気持ちもない人たちに頼るのはもうやめませんか? 自分の人生に責任を取る用意のない人は、その責任を他の誰かに頼ることで安心を得ようとしています。自分の中のこの奴隷になりたがる傾向を深くみつめましょう。

前著「ニューウーマン誕生」からまた紹介します。

「覚えておくべきもっとも大切なことは、人は独りでいることができないから友達がいるということだ。そして友達が必要である限り、人は大した友人にはなれない。というのは、その必要性が相手を対象物にしてしまうからだ。

友達はあなたを必要としている。彼は自分ひとりでいるのが恐い。あなたは彼を必要としている。自分ひとりでいるのが恐ろしいからだ。ふたり一緒にいれば、その孤独が消えることになると思うかね。それはただ足し算されるだけだ。もしかしたら、掛け算になるかもしれない。だからこそすべての関係は、より多くの惨めさと、より多くの苦悩に導くのだ。

自分が独りであること、空虚であることを受け入れた瞬間、その質そのものが変化する。それはまさにその反対になる。ありあまるほどの豊かさ、充足、エネルギーと喜びの氾濫になる。この氾濫からあなたの信頼が生じるなら、それは意味をもつ。

独りでいることのできる者にしか、友人になることはできない。だが、それは彼にとっては必要性ではない。それは彼の喜びだ。それは彼の飢えではない、渇きではない。彼が分かち合いたいのは、溢れ出る愛だ。

そのような友情が存在するとき、それは友情と呼ばれるべきではない。なぜなら、それは全く新しい次元に入ったからだ。私はそれを友愛と呼ぶ。それは関係を超えた。なぜならあらゆる関係は、何らかの意味における束縛だからだ。それは、自分を奴隷にし、他人を隷属させる。友愛は、どんな条件もなく、どんな期待もなく、何の見返りも、感謝さえも望まない、ただ分かち合うことの喜びだ。

友愛は、もっとも純粋な愛だ。」

先達の教えを噛みしめて、共に歩んでいきましょう。

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2008年4月17日 (木)

パープルストーン

最近、とてもお気に入りの石があります。

石の中にまるで宇宙の星が散らばっているようです。

Epsn1600 実物はもっとキラキラしています。

さあ、石の波動をもらって

今日も一日の疲れを癒しましょう。

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2008年4月10日 (木)

生はただ、流れる川

生きることの意味を問うている時、見えなかったことがある。

この世界に生きて、因果の法則というものに縛られている自分がいると思った。

 私たちが目的を持ち、計画をたてて物事を進めるのは、それが思考するのに都合がいいからだ。それと同列で生きることの意味を語ることの愚かしさにしばしば陥ってきた。

 人はみんな光の存在です。その光はもともとはひとつであり、そこから私たちという個々の分魂ならぬ、無数の光の化身が生まれてきている。この光の化身としての私たちは、何度もこの世界で生まれ変わることによって日々成長し、指導霊となり、さらに高みを目指して成長する途上にあるという。これが私たちの生きる目的であり、意味なのだ?

それでは、なぜ今、これ以上何もすることもなく十分至福を感じることはできないのだろう? なぜ、今の自分ではいけないのだろう?

私たちは時間という幻想の世界に翻弄されているだけではないのか? 因果の法則というのも、時間なしには考えられない。私たちの思いが世界を作るということは即ち、それは時間を作るということだ。成長するということも、時間抜きには考えられない。カルマの法則は確かに存在する。しかし、それは私たちの思いが生み出した世界の仕組みではなかったのか。ゲームをするにもルールがなければ、ゲームそのものを楽しむことはできない。因果の法則とはこのルールのことだ。ルールを無視したり理解できないからこそ、そのゲームは楽しくなくなって、行き詰ってしまうのだ。

 人が生きる意味を問うのは、不幸な時とか、今の自分に満足していないからであり、また、生きることのはかなさ、つらさ、悲しみから逃れることができない状況に置かれているのが人間である。そして生きる意味を問うことが既に時間の中におり、因果の法則下に私たちがとらわれていることの証でもある。

 しかし、生死を命の一連の流れととらえ、その流れに気づくことで生の神秘の何かが明かされるかもしれない。

生きることは祝祭であるべきだ」と云った和尚の言葉が浮かんでくる。

それはただ、流れることだ。強いて言えば、生という川の流れの気づきのために私たちは生かされ続けているのでは、と思う。

子供が時間を忘れて遊びに没頭する。そこには現在しかない。その現在には時間のない永遠の至福の一瞥がある。

生は、ただ流れる川

この言葉をヒントに故郷へ向かう私の旅は続いてゆく‥

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2008年4月 6日 (日)

生きた言葉

自。分の体験からでた言葉には重みがある。

知識がいくら豊富な人でも、それら言葉の示す意味が理解できなければ、それはただのがらくたにすぎない。

よく、言ってることと行動してることが違うという場合、その人は自分の言っていることが理解していないといって間違いない。

理解とは、体験によって自分自身が変わることだ。

例えば、10年前に読んだ本を読み返してれはみれば、

そのときにしるしをつけたところと違うところに注目したりする。

これは10年前に必要としていた言葉と今自分が必要としている言葉が違うということだ。

時間の経過とともに人は変わる。

ひとが変わっていくのは、単に自分のなかにあったものが、またひとつ顕われてきたというのに過ぎない。

そうやって人は、自分の来たルーツをさかのぼっていくのかもしれない。

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