« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »

2008年3月

2008年3月29日 (土)

カルマの解消

人は自分で知らないうちに、カルマを作っています。良いも悪いも自分に降りかかっている状況を自分で納得したとき、そのカルマは、自然に解消することができます。

では、自分で作ったカルマを作る段階で意識していればいいのですが、残念ながら、人は行為の結果からしか学ぶことができない存在です。

そこで、今日は行為のなかで、カルマを解消する方法を紹介します。解消といっても、実際には、いつも同じ過ちを呼び起こしてしまうといったことに対しての対処法ととらえてみてください。残念ながら、この方法は自分でも実践が難しい方法ですが、どうしたら同じ過ちから抜け出せるかを理解するのとしないのでは大きな違いがあります。

前回に紹介した「ニューウーマン誕生」からの引用ですが、アマゾンで図書の確認ができていません。

全面的に行為の中に入ることが、行為から自由になることだ。

行為から自由になる必然性は、良いことが自分の周りに起きているときは何の問題もない。しかし、不幸続き、不運続きだと、なかなかその状況から抜け出せないということが起きる。その状況から抜け出す方法を知っているということは、大事なことです。

幸福なら幸福で、不幸な人の前で、色々心を痛めることになる。

そもそも不幸からも幸福からも自由であることが、身を軽くすることにつながっている。

カルマができるのは、人がそのなかに全面的にいないからだ。もし、そのなかに全面的にいたら、それは痕跡を残さない。何でも全面的にやれば、それは終わる。そうすれば、その心理的な記憶を持ち運ぶことにはならない。何でも不完全にやれば、それが人につきまとう。いつまでも続く。それが思い残しだ。そして、マインドはそれを続けたい。それをして完結したい。

 マインドには、ものごとを完結したいという大いなる誘惑がある。どんなことでも完結すればマインドは消える。もし、ものごとを全身全霊でやり続けたら、ある日、突然、マインドのないことに気づく。

思考とは、過去における未完な行為の蓄積だ。

マインドについては、人の夢や理想、願望といったものすべてを抱く個人のこころということです。人がこの世界に何度も生まれ変わるのは、このこころのおかげです。

一方で、このこころのせいで、人はこの世界に振り回されて生きている。この世界は色んな人の夢や願望が衝突しあって成り立っています。だから。幸福の数と不幸の数がバランスよく保たれています。

例えば、誰かと、まだ一緒にいたいのに別れなくてはならなくなった時、それはカルマとなって残ります。人は自分の意思に関わらず、どうしようもない状況でカルマを作ってしまうことの方が多いと思います。だからこそ、そのような状況から抜け出すためにも、この世界で生きる自分を冷静に見つめる自分を探す必要があるのです。それが自分探しの旅ということでもあります。冷静な視点で人生を見つめ直した時、それがカルマからの自由の第一歩になるのだと思います。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年3月23日 (日)

失って気づくこと

失って気づくこと

失って初めて

気づくことが  あまりに多くて

一人では抱えきれない

失って初めて

気づくことの大切さが

あまりにも重たくて

一人では支えきれない

だけど

失って気づいた

そのことは

失って気づいた人にしか

わからない

それは寂しいこと

とてもつらいこと

とても悲しいこと

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月20日 (木)

二羽の鳥

ウパニシャッドの経文のなかにある一節

「二羽の翼も美しわしき、契りを結べる伴侶ありて、ともに同一の樹を抱く。その中の一羽は甘き果実をくらい、他の一羽は、唯だ傍観するのみ」(ウパニシャッドからヨーガへ:平河出版社)

人間は、宇宙の樹に泊る二羽の鳥のようなもの。一羽は宇宙の時間と空間の流れに乗ってその宇宙自らの展開する生命体のなかに、誕生し、そして死にゆく存在である。

もう一羽は、その一部始終を見守っている。

そして、私は自分が誰なのか問うとき、この両親から授けられた身体と、周りの環境によって教育されてきた心とをもって私と答える。

しかし、身体も心も与えられたものであって、明日も決して同じではあり得ない。

ならば、これが私と言えるものはなんだろう?

そこでわたしは自分の幼い頃に嗅いだ匂いが、大人になってからまた何かのきっかけで

嗅いだとき、その時のがよみがえってきた。

とは、時を越えて変わらないもののなかにこそ、見出されるべきだと、思った。

永遠に変わらないわたしを求めて、その時から自分の旅が始まった。

束の間のしあわせなど取るに足らない。この世界は、誰かがしあわせになったら、

他の誰かがふしあわせになってしまうという悲しい世界である。

だからわたしは、私自身の意識の源であるもう一人の自分を想起した。

瞑想とは、自分自身を想起すること。その旅は長い道のりだ。

けれどそこに、同じ自分の道を歩んでいる者がいれば、それはとても心強いこと。

みな、自分自身の道を歩いていけたら、世の中、不幸ということはなくなるのに

でも、それはたんなる理想のひとつにすぎない。ならば、あなたに問う。

この生きてる世界であなたはなぜ生まれてきたのか?

そして、これからどこへ向かおうとしているのか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月15日 (土)

結婚と自由

ニューウーマン誕生:和尚エンタープライズジャパン」に結婚してなおかつ自由であることは可能なのかという質問に答えた、名文(と私は思っている)をご紹介します。著者は結婚という制度そのものに反対なのですが、問題は人間が作った制度によって自然に成長しようとする心が歪み、ゆがんでしまっている現代を愛と自由をとり戻すためにこの本では色々なことを述べてくれています。私は、人と共に暮らしていくための基本的な理解として、この名分を貴重なものとしていました

結婚して同時に自由であることは可能ですか?

それは難しい。しかし、不可能ではない。ただ少しの理解が必要だ。ニ三の基本的な真理が認識されねばならない。

第一に、誰も他人のために生まれてはいないということ。

第二に、誰も人はこのようにあるべきだというあなたの理想を満たすために、ここにいるのではないということ。

第三に、あなたは自分自身の愛の主人であり、自分の望むかぎりを与えることができるが、誰も奴隷ではないのだから、相手から愛を要求することはできない、ということ。

もし、これらの単純な事実を理解したら、そのときには、あなたがたが結婚しているかしていないかは問題ではない。あなたがたは一緒にいられる。互いの空間を許し合い、互いの独自性を決して妨害せずに。‥‥‥

結婚の目的は互いに自分たちを閉じ込め、自分たちを束縛することではない。その目的はあなたがたが互いに成長するのを助けあうことだ。しかし、成長には自由が必要だ。そして、過去においては、すべての文化が、自由がなければ愛は死ぬことを忘れてしまっている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 9日 (日)

幸福と至福

あなたは幸福と至福の違いがわかりますか?

そして、この自分の人生にこのどちらをを求めていますか?

「イーシャウパニシャッド:市民出版社」から幸福と至福について書かれていることを紹介します。

幸福と至福の違いはなんだろうか?

幸福は楽しいものだが、常に束縛であり続ける。

至福を望むものは、自由の最高の形態を望む。

幸福はどれほど深く大きいものであっても、確実に消えていく。

どんなに長く続いても、確実に終わりがある。

光明、至福には始まりがある。だが、終わりはない。

天国、幸福には始まりも、終わりもある。

地獄には、始まりがなく、終わりだけがある。

もう一度繰り返させてほしい。

地獄には始まりがない、惨めさには始まりがない。

幸福は始まりうる、今はないにしても

地獄には、始まりはない。が、それは終わる。

天国には、始まりも終わりもある。それは始まり、そして終わる。

光明(至福のこと)には始まりしかなく終わりがない。

ひとたび始まれば、終わりは来ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月 3日 (月)

誠実さ2

誠実さについて、以下は「こころでからだの声を聴く:市民出版社」から抜粋し、まとめたものです。

自分に誠実であることを心がけなさい。

それにはと゛うしたらいいのだろう?

第一点

人の言うこと、あなたに向ってこうありなさいと言うことを聞いてはいけない。

常に自分の内なる声、自分がこうありたいと思うものに耳を傾けなさい。

さもないと、あなたの一生は無駄になる。

第二点

仮面をかぶってはならない。

怒りを感じたら怒りなさい。泣きたいときは泣きなさい。心から泣けない人は心から笑うこともできない。

仮面をかぶることは、身体のあちこちに不調を生じることにつながっている。

第三点

真正でありなさい。

常に現在にいること。過去のことをくよくよしたり、まだ来ぬ未来のことを思い煩ってはいけない。今、起きてることの瞬間にとどまっていなさい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年3月 2日 (日)

人間関係

避けて通れない人間関係というものがある。

分にとって付き合いやすい人話がしやすい人というのがいる。

周りがそういう人ばかりならいいのにと思う。

付き合いにくい人というのは大抵、その人独自のくせのある人である。

そのくせが一般社会常識からみて受け入れがたいということでもある。

付き合いにくい人は、できれば避けて通りたい。ところが、仕事や親戚付き合い、友達の友達だったりしてどうしても避けられない場合がある。そんなとき、その人と付き合うということは、ある意味で自分を高めるチャンスでもあるのである。

それは相手が自分のことに少なかれ、関心を寄せいてる場合である。

しかし、相手が端から自分のことを見下げてしまっている場合は徹底して無視していくしかない。

人との関係は、結局相手に、より関心を持った方が弱いものである。

その弱みを上手く利用できるか、反対に利用されるかで全然違ってくる。

無視できない嫌な相手に対しては、自分の人間レベルをそれこそ高める必要がある。

結局、人間として生きてる限り、何事も修行なのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年2月 | トップページ | 2008年4月 »