2009年7月10日 (金)

野心(1)

私たちの社会は私たちの人間の道徳レベルの総体で作られている。だから、私は社会に起きているさまざまな事件には無関心ではいられない。

子供の頃、社会は正しい組織で運営されているものだと思っていた。

私たちは、必然的に腐敗が起こるような社会を作り出してしまった。というのも、社会のまさに根本が腐敗しているからだ。

 

社会のまさにその基本を変えない限り、必ず腐敗にいきつく。これまでずっとそうだった。

社会の形態は変わっても、腐敗の構造はそのままだ。なぜなら私たちは、いまだに腐敗不可能な社会を作り出してはいないからだ。

和尚は、この社会を作り出す基礎となっている教育体系が野心志向であること、野心を抱かざるを得ない社会が腐敗する運命にあることを言っている。これは国家の支持政党を変えたらいいという小手先の対策だけでは問題は解決しないことを物語っている。

動機なき不特定殺人が増えたり、家庭内殺人が増えていたり、精神疾患患者が増えたりしているのも、それだけ世の中が腐敗しており、より病的な社会が進行していることの現れである。

そして、このことは、ニュースでの出来事などではなく、いつ身近に起きてもおかしくない自分自身のこととして受け止めねばならないのだ。そのことの自覚が私たちにはまだ欠けているように思えてならない。

太字-「グレートチャレンジ 和尚:市民出版社より抜粋」

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2009年7月 4日 (土)

権力志向

 私たちの多くは権力志向である。

なにも権力者に成りたい人だけが権力志向なのではない。というのも、肩書きや権威に弱い人たちも権力者に媚を売っている点では同様であるということだ。

著名人や有名人というだけで、好感を持ったり支持したりするのが良い例である。

元芸能人を政治家に持ち上げようとする国民感情とはとんなものなのだろう。

農耕民族である日本人は、あまり変革を好まない。自民党政権が今まで与党として続いてきたのは国民の保守的な心理傾向が強かったのだろうと思う。

しかし、政治家に成りたがっているタレントになぜ人々は弱いのだろう。なぜ応援してしまうのか。

 真の民主主義は権力国家のもとでは決して成り立たない。私たちは自分たちの手で何かをしなければならない時でも、他の誰かが、頼りになる誰かが「自分たちのためになにかしてくれるだろう」と思い込んでいる。そしてこの他人任せな姿勢がよこしまな権力者を排出し、のさばらせてしまっている。形だけの民主主義の中で国民一人一人が意識を高めないといけない。そうでなければ、この日本国家は衰退の一途をたどってしまうだろう。

政治家の多くは世襲議員でありお金に関してはなに不自由なく育ってきたはずである。そんな人たちに子供の教育を満足にできない親や、介護が困難な見捨てられた老人たち、不景気だといって真っ先に切り捨てられる労働者たちなど、弱者の悲痛な叫びなど果たして理解できるものだろうか? 自分が経験しないことに関しては想像力さえも持ちえない傾向の現代人にあって、政治家はそんな弱者の痛みなど表面的に理解しているだけなのだと思う。テレビなどで自己主張し、パフォーマンスを演じている愚か者は、単に権力者に自分を売り込み、自分も権力者になって自分勝手な自由の世界を思い描いているだけではないのか。

権力を得ようとする者は、それなりの知名度と資金力が必要である。世襲議員は家の資産があり、芸能人には知名度がある。そういう人たちばかりの集まりは、弱者たちの世界観とはまた別次元のユートピアを描いているものだ。格差社会が言われているが、これではますます格差が拡がっていくばかりであると思えるのは私だけであろうか?

あなたはテレビ画面に映る有名人の姿だけを信じて、このひとは良い人だなどとほざいているのか。その人のことを知るには付き合ってみないとわからない。そういうことを考えたこともないのだろうか。他人を評価する見方が表面的な人は、自分自身について掘り下げて考えたこともないのだろう。そういう愚か者の集団であっては、世の中住みにくくなるばかりである。

政治家は、自分を基準にした、自分の描くユートピアの実現のために、法律を変え、自分とよく似た考えの持ち主とけったくする。その人たちも当然お金に困ったことなどないはずである。そして彼らは国民のためといいながら、結局は自分たちの野望と貪欲さのために弱者を犠牲にするのである。

もし、まともな政治家を選ぶのであれば、弱者上がりの人を選ぶことをお勧めする。残念ながら、そのような政治家は少ないし、実際にあまりよく知られていない。そして人気のない政治家ほど、人は疑い、投票などしないのである。

弱者の中からこそ政治家を排出するべきである。そうならない現在の国家の仕組みは、この先も弱者と強い者、勝ち組と負け組を作り続け、ともに共生し、富のバランスのとれた世界はいつまでたってもやってこないだろう。

こんなときこそ、政党を超えて協力しあわなければならないのに、お互いのあげ足を取って批難し合うくだらない政治家のどんなに多いことか。ましてやその人たちが閣僚だったりすると事は深刻です。そんな連中を選んだのは他でもない、私たちなのだ。

「いいえ、私は、俺は誰も選んでなんかないそ゛」という人たち、そう云う君は選ばないことによって、今日の社会情勢に力を貸し、今の政治を認めてしまっていることに他ならない。そのことに早く気づけよ!

国民ひとりひとりの自覚が根本から変わらないといけない。

どうか良識のある人間でいようではないか。

非難ばかりしているあなたたち、他人の批難をする前に、そういう自分はどうなのか?

もっと自分自身と向き合ってほしい。

自分自身と向き合う者だけが、美しく成長できるのだから‥。

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2009年6月27日 (土)

過去の遺産(2)

肉体は過去をとどめる。思考は過去をとどめる。重荷を背負ったこの状態ゆえに、人は今ここにあることができない。人は、自分の過去と折り合いをつけねばならないのだ。

‥残っているものすべてを解消せねばならない。そこには何百万もの遺物がある。

肉体は過去をとどめる。過去に受けた傷や快楽、肉体に与えた痕跡は今も刻まれている。思考は過去をとどめる。過去に考えたことだけでなく、生活習慣となった思考形態も今の自分の一部として働いているのだ。

自分の過去とは、単にこの生だけでなく、過去に生きてきた幾つもの自分も含まれているのだとも和尚は云っているのだと思う。そして、これら過去の過ちやこころのしこりが今を生きる自分の人生に大きな影響を及ぼしている。と同時にいま、周囲の環境が自分につきつける課題は、自分がイメージしたり考え続けた思考などが招き寄せた結果であるだともいえよう。

「なんで自分はこんなに苦しまなければいけないのか?

その原因を他人のせいにせず、今の自分に与えられた、乗り越えるべき試練と受け止めよう。

私たちは常に過去の無意識な記憶を携えている。その記憶が今を生きる自分に影響を与えている。いいことも悪いこともみんな、過去の記憶や過去にした行いが反映されているのではないだろうか? それゆえに、私たちは、「いまここ」、無限のなかの一瞬を全面的に生きることはできない不自由な生き物なのだ。

しかし、「いまここ」を全面的に生きることは可能である。そのとき、真に今の瞬間を純粋に生きる者の成長した姿がそこにあるのだと思う。

少なくとも、私たちが過去をひきずった思考や肉体を携えていることの不自由さをまず感じなければ、何も始まらない。不自由さのしるし、それは苦痛や不安である。

‥それが、人生のアートのすべてだ。一瞬ごとに死に、後に何も残らない。

ひとつの関係が終わる。 自分はそれを引きずりはしない。それに死ぬだけだ。‥ それを受け入れ、それに死ぬ。完全な気づきを持ってそれを落とすだけだ。そうすれば、人は新しい瞬間の中に蘇生する。もう過去をたずさえてはいない。

太字:「そして花々が降りそそぐ OSHO(市民出版社刊)」より引用。

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2009年6月21日 (日)

過去の遺産(1)

人は過去をすべてたずさえる。過去の一瞬、それぞれを。これまでに、自分は何と多くのものであったことだろう。子宮の中から今このときまで、自分は何百万の人格であり、それらすべてが自分の中に、何層にも重なってたずさえられている。成長しても、それはそこにある。頭の中だけではなく、それは体の中にさえある。

和尚の云う過去とは生れてから今までに引きずってきた過去の記憶である。たとえば子供の頃に理不尽なことで誰かから叱られて、それに対抗して何も言えなかった自分がいたとしよう。そのことは憎しみとして、あるいは何も反論できなかった自分自身への怒りとして心の片隅に記憶される。そのときの傷は、大人になった今でも、何らかのきっかけを通して繰り返されるというのである。

もしも、その時に言いたいことがきちんと言えたなら、その後には嫌な記憶としてそのことは残らない。

「それは体の中にさえある」というのは、たとえば相手に対して怒ったときにその感情を表現しなかった自分がいたとする。その自分の怒りは体のどこかにしこりとして残る。そのしこりが体の変調を引き起こすのである。

和尚によると感情的なものは相手にぶつけて表現したり、抑圧したりしても解消しない。それはその感情を意識的に理解することで解消するのだという。ここのところは別に詳しく説明する機会を待とう。

相手に怒りを表現すると、今度はその怒りによって相手がしこりを残すことになり、その発散のはけ口をまた、他の誰かをみつけて求めることになってしまう。

感情を抑圧することは、自分のこころや体にしこりを残すことになり、同じような状況を何度でも引き起こし易くなり、その状況は本人がその傷口を解消するまで続いてしまう。

何よりも、感情の抑圧は、その人をその段階で成長をストップさせることで一番良くないことなのである。子供の時に受けた傷は、大人になった今でも時々顔をのぞかせ、そのひとを子供がえりさせたり、幼稚な行動を起こさせる原因になったりする。

最近は、催眠セラピーなどにより、そのひとの心の傷の原因となっている子供の時の場面にまで退行させて、過去の自分を慰め、受け入れて感情をはけ出させるというのがある。

これはその人の今では記憶となってしまった過去の感情に対して、気づかせて、それを開放してやるというものである。

感情を意識的に理解することは大切である。その心の傷の原因となっている感情を冷静に見つめさせる作業によって、その時の怒りや憎しみなどのエネルギーは解放され、自分の中から消えていくのである。

これらは単にひとつの例を示したに過ぎないが、人は否定的な感情を幾重にも蓄積させて、子供のままに取り残された自分を大人になった今でもたずさえているというのである。

これが人の成長を阻むだけならいいが、人の心の病や、体の特定部分の病気の原因とさえなっているから、やっかいなのである。

太字:「そして花々が降りそそぐ OSHO(市民出版社刊)」より引用。

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2009年6月13日 (土)

人は絶えず誰かに恋をしていたいし、そのときめきが私を魂の高みへと誘う。

結婚相手に恋し続けられるのはひとつの才能であるが、それは相手に自分のないものをもっているか、日々、相手に新しい何かを発見できるからなのだろう。

明日も相手の何かがが変わらなければ、次第に飽きてしまうのだろうか?

 私たちはいつも恋に胸ときめかせることで、自分自身の心の未知の領域の何かを導き出すことができる。誰かに恋することで、それまで自分にはなかったある一面を発見することがある。

誰かに恋をすることは、新しい自分自身の扉を開くことなのだと言えないだろうか?

 和尚は自らの本性を知ることは学ぶことによっても教えられることによっても起こることはないのだという。

 それは師との合一によって、すでに到達した者と恋に落ちることによって、彼のなかに自らの本性を見いだすことによって可能になる。あなたはただの種子でしかないが、師は開花に至っている。それがあなたに上昇したいという、自らも花になりたいという熱望を与える。それは学ぶということではないし、教えるということでもない。師への深い愛がすべてを決める。

              「ボーディダルマ和尚:めるくまーる社刊」より

これは自分が本来あるべき姿、花開くひとつの花であり、孤高の個人になることへの渇望を師への恋によってもたらされるというものです。そして、師への愛が深ければ深いほど、その渇きはより自分の本性へと向かわせるというものだ。それは知識によって到達されるものではないという‥。

 

私なりの解釈では、誰かに恋をするということは、相手を通して、自分自身の何かが意識され、結晶化していくのだと思える。それは、相手を通して、自分の心の何かが動かされ、魂の奥深くで揺さぶられるのである。そうすると、現実の相手とは、そのときの自分が抱いていたそのときのある理想のイメージの投影である。その投影像が、相手を良く知るに連れて深い愛情へと切り替わるのであるが、他方で恋は長続きするものではない。

相手に抱いていた恋心とは、自分自身の本性であるものへの予感に相違ないのではないだろうか?

そうして、人は絶えず恋を重ねるごとに、より自分の本性に近づいていくことになる。

人は自分の本性に近づく度に、いきいきすることができる。それは魂の深化していく、種子が芽を出し、枝葉を揃え、つぼみをつけていくように自然で喜びに満ちた過程である。

その自然な流れが滞っている状態が、苦しみを生み出している。

恋は人を生き生きさせる。そうでないものは停滞であり、何かへの執着だったりするのかもしれない。

恋は人をその魂の高みへと導いてくれる。外的なきっかけを通して、自分自身に秘められた本性を引き出してきれるのである。そして、その過程は、人が個人としてひとつにまとまり結晶するまで続くものなのだろう。

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